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中島みゆきが歌姫と呼ばれる理由とファザコンと述べる生い立ちとは

投稿日:2018-04-24 更新日:

シンガーソングライターとして活躍している中島みゆきさんが「歌姫」と呼ばれる理由とは?

壮絶な生い立ちと華麗なる一族にある、中島みゆきさんは父への思いをファザコンと表現しています。

20代前半からヒット曲を出し続けてから現在66歳を迎えてもなお、愛され続ける楽曲を持つ人物を私は知りません。

当時、まだ幼かった私は、中島みゆきさんの楽曲「時代」をはじめて聞いた時に、胸の奥にある生きる力をギュッとわしづかみされた感覚を、大人になった今でも忘れられないでいます。

【中島みゆきが一度だけ女優に】

テレビ嫌いで有名な中島みゆきさんです。

でも一度だけ女優としてテレビドラマに出演しています。

1992年にフジテレビドラマの「親愛なる者へ」

中島みゆきさんは、父の職業と同じ産婦人科医師の役柄だったことから引き受けました。

脚本家の野沢尚さんは、中島みゆきさんの父の職業をこの時、知らなかったそうです。

ドラマの主題歌は「浅い眠り」です。

脚本家の野沢尚さんは、中島みゆきさんの曲を聴いて、その世界観を脚本にしたそうです。

ドラマのヒロインの凪子(なぎこ)役を、女優の浅野ゆう子さんが演じました。

撮影舞台は新潟県の佐渡で、中島みゆきさんが子どもの頃に過ごした、北海道岩内郡の小さな海辺と似た景色があり、なぜこの場所を選んだのかは、脚本家の野沢さんは亡くなっているため誰も知ることができないようです。

打ち合わせの席では、中島みゆきさんが台本を持ってあらわれると、

セリフの中で「産婦人科医師はそのような言い方はしないと思う」と意見したそうです。

セリフを変更することを譲らなかったことは、当時の報道でも取り上げられ、話題となりました。

父の背中を見て育ち、父の診療所を手伝ってきたから言えることなんだろうと思います。

後に、自らをファザコンですと述べていて、父に優しくしてあげられなかったことへの十字架を背負っていることをあかしています。

女性は誰でもファザコンであり、大切な人を見送った経験のある人は、誰でも私にも、自責の念を抱きながら今を生きているから、中島みゆきさんの歌声に心を掴まれた気持ちになるのかも知れません。

【生い立ちからデビューまで】

「生い立ち 小学校時代」

本名は、中島美雪(美しい雪の日に生まれたことから名づけられました)

中島みゆきさんは、北海道札幌市で生まれたが、1960年、5歳の時、父の仕事に伴い、岩内郡岩内町の小さな海辺がある街に引っ越してきたそうです。

岩内町での暮らしぶりは、中島みゆき一家は憧れの対象だったようです。

父、眞一郎さんは産婦人科医師で、大学病院の要職に就く人物として知られていました。

しかし、地域の医療に力を入れたいという思いから、岩内町に赴任してきたそうです。

岩内西小学校で中島みゆきさんと同級生だったという人達は、

「中島みゆきちゃんの家は私達の暮らしぶりとは違っていて、夢のような家族だった」

と、語られていることから、裕福で恵まれていたようです。

当時の岩内町は漁業の盛んな街で、夏になると子ども達は日焼けした中に、

「中島みゆきさんは、色が白くて、可愛らしいお人形さんのようで、いつもキレイなお洋服を着ていて、大人しい性格のお嬢様だったことから見た目からして違う」

と、語られています。

セレブ一家ということは、振る舞いから違っていたようです。

また、一般の子ども達は父母のことを「父ちゃん、母ちゃん。」と呼んでいましたが、

中島みゆきさんは「お父様、お母様」と呼んでいたことを同級生たちは記憶しているそうです。

習い事は、岩内町から小樽まで、ピアノとバレエのために通っていたようです。

岩内町でピアノやバレエを習っていたのは、中島みゆきさんだけだったから目立つ存在でした。

しかし、イジメらることがなく、どんな人からも大切にされる、愛される存在だったそうです。

父の眞一郎さんは仕事には厳しく、一緒に仕事をする看護師たちは、気が引き締まると言われるほどでしたが、休みの日になると家に招待して、妻の手料理でもてなしたそうです。

中島みゆきさんの母の典子さんは、毎日、お弁当をつくる、家庭的で美しい上品な女性だったと語られています。

昭和37年8月に、父はバイクに乗って出かけると事故にあったことから、一命は取りとめたものの長い療養することになったといわれています。

この事故の後、誰にもさよならを告げることなく、中島一家は岩内町を去ってしまいました。

この時、中島みゆきさんは11歳だったといわれています。

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【生い立ち 中学校から高校時代】

父、眞一郎さんの実家がある帯広市に移り住むと、個人病院・中島産婦人科を開業しますが、事故の後遺症から以前のような明るい生活でなくなったそうです。

中島みゆきさんの中学校時代は、目立たないように過ごしています。

イジメの対象にもされることがあったことから、中学3年生の時、体調を崩した母が、実家の山形県山形市に療養するのに合わせて、転校していますが4ヶ月間ほどで、高校受験のために北海道の帯広市に戻っています。

高校進学は、父の母校の帯広柏高校で地元では名門と言われています。

高校に入学してすぐに、祖父の武市さん(帯広市議会長)が賄賂の疑いがかけられてしまいました。

市議会議長選挙で市議たちに、お金を配って票を集めようとしたという事件が、毎日大きく取り上げられるようになると、中島みゆきさんは学校に行くことが困難になってしまったようです。

祖父、武市さんが否定したために、処分は保留になり保釈されましたが、それでも一度ついた悪いイメージを取り払うことができなかったと語られています。

父、眞一郎さんも事故の後遺症などで変わってしまったことから、家の中の灯が薄らいでいたようです。

中島みゆきさんは中学校と高校時代に親しい友人を作ることがなかったようで、その孤独な時間をギターを弾いたり歌を作り始めるきっかけになったと言われています。

中島みゆきさんの楽曲には、「あれ?ピアノで作ったのかな、それともギターで作ったのかな」と思いながら聴くことがあります。

高校時代に独学で弾いたギターのメロディーに歌詞をのせていたことと、子ども時代に習ったピアノとリズム感が楽曲に反映されているのかも知れません。

高校時代は引きこもりのような状態だったと自らを振り返っていますが、このままではいけないと思ったそうです。

自分を自分で奮い立たせて、学園祭で中島みゆきさん自ら希望して講堂のステージに、ギターを持って立ちました。

当時の帯広柏高校は、元々は男子校の名門だったために、女性はステージにはあがらないものという、暗黙のルールがあったので、女性が初めてステージに立ったことは大きな事件として扱われたようです。

「ヤジが飛び、誰も中島みゆきさんの歌を聴こうとしなかった」

「歌っていても、うるさくて何も聞こえなかった」

と話しています。

しかし、ステージが終わってから

「それまで口をきいたこともない男の同級生が褒めてくれた」

とも、話しています。

ヤジが飛び交うステージの中に良かったと言ってくれる人もいたことが、中島みゆき本来の明るさを引き出したように感じます。

「出て良かった」と感じたことをあきらかにしています。

【大学時代からデビューまでの歩み】

高校を卒業すると、札幌の藤女子大学国文科に進学すると、自分を知る人から解放され、、友人を作るために、北海道大学にフォークソングの仲間作りに行き、自分でコンサートを開いたり、街角に立って歌ったそうです。

1972年、大学3年生の時に、中島みゆきさんはフォーク音楽祭に出場すると、北海道大会を通過して、全国大会へ進みました。

全国大会の審査では、自分の作品を発表することや、主催者が指定した歌詞に楽曲をつけて歌います。

その時、自作品は「あたし時々おもうの」を歌い、主催者から提示された歌詞が、谷川俊太郎の「私が歌う理由」です。

中島みゆきさんは、この歌詞を渡されたときに、ショックを受けたと言います。

「私が歌う理由」だからだと述べています。

全国大会が終わってから、デビューする話があったが、断ったそうです。

なぜかというと谷川俊太郎の詩「私が歌う理由」が頭から離れなかった、心に刺さったことなんだそうです。

そういったいきさつから、大学の卒業論文のテーマに谷川俊太郎を選んだと述べています。

コンテストに出場したもう一つの理由は、交通費やお弁当が支給されるのでアルバイトのような気持ちという事が、天才素質を感じちゃいます。

ちなみに中島みゆきさんは教員免許を取得しているそうです。

担任の先生が中島みゆきさんだったらと思うと・・・

想像できません。

やはり歌姫の中島みゆきさんがいいです。

大学を卒業すると父の産婦人科診療所を手伝いました。

1975年5月、ヤマハ音楽振興会が主催する第九回ポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)に出場しています。

その時の楽曲は「傷ついた翼」で入賞。したことがきっかけでデビューが整ったようです。

【アザミ嬢のララバイと、時代のエピソード】

1975年9月25日が、「アザミ嬢のララバイ」発売日です。

その数日前の9月16日、父・眞一郎さんが脳溢血で倒れると昏睡状態になりました。

翌月、中島みゆきさんは、前からエントリーしていた第十回ポピュラーソングコンテストに出場するために、父の病室からギターを抱えて会場に向かったそうです。

このコンテストで歌った楽曲は、父が倒れてから病室で作った「時代」という。

この時に歌う予定だったのは「傷ついた翼」でしたが、突然、「時代」に変更して、グランプリを受賞しました。

11月、第六回世界歌謡祭に日本代表となり出場すると、楽曲「時代」で優勝しています。

テレビや新聞で報道されたことによって中島みゆきさんの名前が世の中に出た瞬間でした。

小学校時代に過ごした岩内町の同級生たちは、お嬢様だったイメージとは違ったギターの弾き語りで時代を歌う中島みゆきさんに戸惑ったと言います。

中学校や高校時代に過ごした帯広市の同級生たちは、自分よりも下に見て地味だった中島みゆきさんの堂々とした姿に注目したそうです。

父が倒れた病室で作られた「時代」を、父、眞一郎さんは昏睡状態の中で聴くことができたのでしょうか?

私は聴くことができたように思います。

12月に、2作目として「時代」がシングル発売されました。

1976年1月4日、中島眞一郎(51歳)死去

父が亡くなった時に、家にはお金が10万円しかなくて困ったことをあかしています。

中島みゆきさんの歌がお金になったことが助かったと述べています。

このとき、祖父の武市さんは81歳で健在のようです。

父のお金が10万円ということは、父と祖父の間には距離があったのかも知れません。

孫、中島みゆきが歌う姿を見ることができたことが嬉しかったと思います。

【歌姫と呼ばれる理由と音楽へのこだわり】

「時代」は1975年に中島みゆきさん(21歳)によって発表されています。

まだ21歳の若い女性に、人生の何もかもをわかった歌詞が書けるのだろう?

なぜ、人生を厳しくも突き付けるような歌詞と歌声に対して、柔らかなメロディーを奏でるのか?

中島みゆきさんの楽曲を聴くたびに、胸の奥と脳の奥に住む生きる力に訴えかける何かは、「歌姫」と呼ばれるにふさわしい人物なのだと思います。

中島みゆきさんが歌で伝えたいのは「生命力」だと述べているそうです。

生きることを諦めてしないそうな人たちに、疲れてしまった人たちに、生きる力を伝えたいと語っていることがあきらかになりました。

産婦人科医師の父を持ち、生と死と、人は一人では生きてはいけないことを間近に感じてきたからこそ、「絆」や「宙船」(そらふね)が表現できるのかも知れません。

2009年、紫綬褒章を受章。

【こぼれ話① ユーミンと・・・】

シンガーソングライターの松任谷由実さん(愛称ユーミン)は、かつてライバルは誰か?と質問されると、中島みゆきさんと答えています。

テレビやラジオなどのメディアでは中島みゆきさんのことを「みゆき」と呼んでいます。

中島みゆきさんは、松任谷由実さんを、「松任谷」(まつとうや)と呼んでいます。

互いに認め合い、尊敬しあっていることが明らかにされています。

ちなみに中島みゆきさんの方がユーミンより2歳年上です。

ユーミンの生い立ちの掲載記事はこちら

ユーミンの女性として楽曲への思いはこちら

最後まで読んで下さってありがとうございました。

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こんにちは りおさです。 サイト名「SALON DE RIOSA」はりおさの趣味の部屋です。普段はアトリエで物を作っています。ブログは子供の頃からプロフィールを収集することが好きだったので始めました。周囲にリサーチしていると「りおさの時間を短くしてリオサーチ」と呼ばれるようになったのが始まりです。 いろいろな世代の人が年齢や性別を気にせずに会話が弾んだら楽しいとおもったことがはじまりでした。 このサイトを訪れたあなたにとって、お気に入りのカフェにいるような、気軽な雰囲気でリラックスした時間を過ごしてほしいという思いを込めました。

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