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小澤征爾さんの生い立ちとミステリアスな華麗なる家系と人脈の謎

投稿日:2018-04-30 更新日:

世界の小澤征爾と呼ばれる高齢の男性の存在を、私達はテレビの報道番組などで知ることがあります。

クラッシック音楽の指揮者であることは、わかりますが…

なぜ「世界のオザワ」なのか?

小澤征爾は何者なのか?

小澤征爾さんは、指揮者として自らのことをあかしていますが、何かベールに包まれて感じられるのは、壮絶な生い立ちと家系にあるからのように感じました。

高齢でありながら、病気を戦い引退を考えながらも、世界に期待され必要とされることから、現役を貫くその姿に感動します。

小澤家の華麗なる面々

小澤征爾の父 小澤 開作 職業、歯科医(享年71歳)

小澤征爾の母 小澤 さくら(旧姓 若松)(宮城県仙台の生まれでクリスチャン)

長男 小澤 克己 職業、彫刻家・ホテル経営者(昭和3年生まれ)

次男 小澤 俊夫 職業、筑波大学名誉教授・ドイツ文学者(昭和5年生まれ)

三男 小澤 征爾 職業、クラッシック音楽の指揮者

四男 小澤 幹雄 職業、俳優・エッセイスト

 

小澤征爾の妻 入江 美樹(いりえ みき)元ファッションモデル

小澤征爾と妻、美樹との間に二児の男児が生まれました。

  1. 長女 小澤 征良(せいら) 職業、エッセイスト
  2. 長男 小澤 征悦(ゆきよし)職業、俳優

小澤征爾さんには、前妻がいましたが、子どもは授かりませんでした。

江戸 京子(えど きょうこ)職業、ピアニスト

江戸京子の父 江戸 英雄(えど ひでお)職業、三井不動産会長

江戸京子の母 江戸 弘子(えど ひろこ)職業、ピアニスト

 

小澤征爾さんのすぐ上の兄、俊夫さんと妻、牧子さん(一般人)との間に、

小澤 健二(おざわ けんじ)職業、ミュージシャン

 

小澤征爾さんの親戚で恩師にあたるのが、

斎藤 秀雄(さいとう ひでお)職業、音楽家でクラッシック音楽の指揮者

1974年(昭和49年)享年72歳

斎藤 秀雄の父、斎藤 秀三郎(さいとう ひでさぶろう) 職業は、英語学者で、正則英語学校の創立者

生涯を英語や英語の辞書編纂に捧げた人物として伝えられています。

秀三郎さんは、英国人に対しても、文法が間違っていることを指摘するほどのエピソードを持った人物です。

親族であっても、秀三郎さんに会う時には、、書生に面談を申し込まないと会えないほど多忙で裕福な人物だったと伝えられています。

斎藤秀三郎さんと、子・秀雄さんは、英語と音楽という分野の違いはあるものの、西洋文化をいかに日本人が学んで自分のものにしていけるかという教育に生涯を捧げた一面を持つ人物でもあります。

斎藤秀雄さんの父の名前はわかっていませんが、仙台藩士(武士の子息)で、英語を専門に学んだそうです。

斎藤秀雄さんの母、「とら」は、仙台藩士、前島美孝の娘(クリスチャン)

小澤征爾の母・さくらと、伯母・とらは、クリスチャンで、満州時代には親交があり、教会に通い教会音楽を聞きていたことから、小澤征爾さんと斎藤秀雄さんは、共通した音楽に親しんできたようです。

小澤一族は、みんな「正則英語学校」で英語を学ぶことがステイタスになっています。

小澤征爾の結婚記事についてはこちら

小澤征爾さんの名前の由来

歴史の中で起こった、満州事変を起こした2人の陸軍軍人の名前を一字ずつ貰い「開作」と名が付いたそうです。

満州事変とは1931年(昭和6年)、中国と日本の武力紛争で、中国側は九一八事変と呼んでいます。

  • 板垣 征四郎(いたがき せいしろう)の「征」
  • 石原 莞爾(いしわら かんじ)の「爾」

満州で開作さんは、妻、さくらさんと結婚すると歯科医を開業しました。

歯科医をする傍ら、満州青年連盟のメンバーとなり、政治活動や社会運動に協力するようになると、軍人の板垣征四郎や石原莞爾などと交流するようになったようです。

この頃、生まれたのは小澤征爾さんで、2人の名前の一字を貰って名付けられたと語られています。

誤解のないように掲載しますが、

小澤開作さんは、満州国で貧しく慎ましく暮らしている、身分が低いために苦労している中国人や朝鮮の人々の役に立ちたいという気持ちで働いていました。

満州国へ移民した日本の人々の多くは、日本の農村地帯の農家の出身の人で、貧しかったから異国の地で、開拓しながら豊かな暮らしができることを夢にしたと伝えられています。

小澤開作さんもその一人だったようです。

小澤開作さんは、山梨県の農家で生まれたので、自分の作ったお米のほとんどは税金で藩(国に)納めました。

昔の税金はお米だったので、自分で作ったお米を自分で食べることができないし、厳しい自然の気候と向き合いながら、知恵を出し合いながら、食べるものを作り、子どもであっても家の手伝いをして家計を助けたことから、満州に渡ってからも貧しい人に寄り添った考えをもっていたと伝えられています。

小澤開作さんは、小学校を出ることが精一杯でしたが、歯医者で働きながら独学で試験に合格したそうです。

満州へ行った時代は、大正12年頃で23歳頃と言われています。

満州へ渡ったのは歯医者として、もっと医学を学びたかったから、シベリヤ鉄道に乗ろうと思い、まず満州へ渡ったようです。

日本の貧しい生活では、なかなか夢が開かないと思ったことから決意した人々は、多くあったと伝えられています。

当時は、歯医者の社会的な身分は低かったので、妻のさくらさんと見合いしたけれど、反対意見も多数あったそうです。

親戚の「とら」さんが仲を取り持ったと言われています。

この「とら」は満州で亡くなっていますが、息子の斎藤秀雄さんが後に、日本で小澤征爾さんの恩師となり「世界のオザワ」へ成長していくキーマンとなります。

昭和16年に家族を連れて中国を引き上げました。

その思いは、日本軍と親交が深ったために、協力者として中国側から懸賞金がかけられていたので、家族の安全を一番に考えて中国を引き上げたと伝えられています。

しかし、その一方で中国の人々が苦しんでいることに対して、何か役に立ちたいという思いは、日本へ帰ってからも募られていたそうです。

小澤征爾さんの生い立ち

中国から引き上げた小澤一家は、東京都立川市で暮らしを立て始めました。

中国ではお手伝いさんなどを雇い、裕福な生活だったが、日本では小さな屋敷に暮らし、そこで終戦を迎えました。

父、開作さんは中国で政治に関わっていたので、日本で貧しくなっても歯科医で生計をたてよういう考えがなかったようです。

母、さくらさんは、多摩川の河川敷に行って、野草を摘んで料理にしたり、内職の縫物をして男児4人の成長を支えたことが語られています。

食べること以外に楽しみがない時代、母のさくらさんは、子ども達を連れて、教会に行き讃美歌を歌うことを薦めました。

中国から持ち帰った物の中に、なぜかアコーディオンがあり、兄弟4人は伴奏をつけて歌ったりして遊ぶようになったそうです。

このアコーディオンが後に、「世界のオザワ」と呼ばれるきっかけを作りました。

兄弟4人は仲が良く、上の兄が下の弟の面倒を見る、そして弟は兄を尊敬するという図式があるようです。

兄たちがアコーディオンを弾くと、まだ幼かった征爾さんが興味を持ち、弾き方を教えると呑み込みが早く、これは音楽の才能があると思い、ピアノを弾かせてみたいとおもうようになったと兄たちが回想しています。

当時、兄2人は、長男が通っていた中学校に弟の征爾さんを連れて行き、音楽室にあるピアノを弾かせると、その才能を確信したそうです。

長男と次男は、弟の征爾さんが弾くピアノの音色を聞いて、「家にピアノがあったらな」「征爾、才能あるよね」と話すようになりました。

それが父の耳に入ると、中国から持ち帰ってからも大事にしていたカメラのライカを売って、ピアノを買ってくれたそうです。

ピアノは横浜の親戚の家から、リアカーをひいて父と長男と次男で、3日をかけて東京都立川の家に運んだと言われています。

征爾さんが11歳の時、ピアノを習い始めました。

征爾さんは、地元の学校にあまり馴染むことができずに、休み時間になると弟の幹雄さんの教室に行くようになっていたことや、ピアノの才能を見抜いて、中学校の進学を私立の成城学園に進学させたいと兄たちが母を説得したそうです。

当時の小澤家の家計は食べることが精一杯なのに、私立へ進学する学費をどうやって捻出するのか、大変だったことがわかります。

しかし、小澤征爾さんの一生を決めたのは、中学校時代に過ごした成城学園の学風が合っていたことにあるようです。

小学校とは打って変わって、人気者で、明るく物怖じしない少年時代だったことが伝えれています。

幼少時代に兄弟4人で歌った讃美歌は、コーラス部に入部すると才能が開き、音楽の道に進む大きなきっかけになったと伝えられています。

コーラス部で初めて「指揮」する人を見て、自分がやってみたいと思ったことが、指揮者となるきっかけとなったようです。

次男の俊夫さんに、指揮のやり方を相談すると、ピアノと指揮の両方を習う授業料払うことは困難なので、指揮に転向することを考えて、母方の親戚の斎藤英雄さんを訪ねて志願しました。

この時、征爾さんは親戚であっても、初対面だった斎藤秀雄さんの家に一人で訪ねて行ったそうです。

しかし、ピアノの先生・豊増 昇さんは、「授業料はいいから征爾君にレッスンを続けさせるように」と話したそうです。

世界のオザワと言われる小澤征爾さんは、無名の時代から才能を惜しまれた悦材だったことがわかります。

桐朋学園との出会い

桐朋学園の前身を山水高等女学校といい、主に陸軍と海軍の子女を教育する目的で作られた女学校でした。

戦後、軍の校風を改めることを条件に新しい校風で推し進められていました。

女学校に男女共学の音楽高校を設立することは、江戸時代から続く男尊女卑の思想から、西洋の男女平等の思想を取り入れることに反対意見がありました。

この頃は山水高等女学校から翌年、桐朋女子高等学校への転換期でした。

しかし、小澤征爾さんが親戚の斎藤秀雄さんの家の玄関先で「指揮を教えて欲しい」と言ったことから、

斎藤秀雄さんは、「来年、桐朋学園に音楽科ができるので、入学してまなぶように。それまでしっかり勉強しなさい」と勧めたそうです。

桐朋学園は女子高等学校へ転換する計画で推進されていたことを、男女共学へすり替わった瞬間でもあったようです。

小澤征爾さんは成城学園高校から、桐朋学園音楽科へ編入を決めたとされています。

征爾さんが桐朋学園に通うようになると、父・開作さんは子ども達に慕われるような歯科医に戻り、高齢になるまで夜遅くまで働いたそうです。

【こぼれ話①恩師・斎藤秀雄さんとは】

恩師の斎藤英雄さんは厳しい音楽科であり、先生だったと伝えられています。

小澤征爾さんも秀雄さんの家でレッスンを受けると、その厳しさに家に着くと玄関先でしゃがみ込んでしまう姿を、兄弟達が支えたようです。

私の友人も、ピアノやヴァイオリンの厳しいレッスンに、何度も泣きながら向かったと言います。

伯母が開業しているピアノのレッスン中に、遊びに行くと優しい伯母ではなく別人になったように教える姿を見て、私はピアノはムリだと思ったほど、レッスンは厳しいように感じました。

小澤征爾さんは、斎藤秀雄さんのレッスンを受けるようになって、ストレスで痩せて十二指腸潰瘍になるほど、真剣に学んだと語られています。

しかし音楽を志す仲間との交流にお互いが励まされ、友人の一人だったガールフレンドの江戸京子さんは、初婚の時の妻として迎えています。

 

【こぼれ話②フランスへ留学する方法】

成城学園でも裕福な家庭の子ども達が通っていたが、

桐朋学園でもまた、元藩士の子ども達が学ぶ場として、裕福な家庭の子ども達が通っていました。

その頃、アメリカからシンフォニー・オブ・ジ・エアーというラジオ番組のために編成された交響楽団が来日しました。

それを聴きに行った時に、ショックを受けて海外へ行きたいという気持ちになったと述べています。

それから裕福な家庭の子息たちが、次々と海外へ留学を果たし、日本から旅立つ姿を見送ると、自分も外国へ行きたいと思うようになりました。

そこで、周囲の人々に援助を頼んだり、カンパを受けて海外へ渡航する準備をしたそうです。

さらに企業・富士重工に留学先の欧米の交通手段としてスクーターを一台、貰えるように交渉して、その見返りに富士重工の社名を宣伝PRすることを持ちかけたそうです。

私の友人はフランスの洋菓子へ留学を決めた人がいます。

資金だけでなく、フランスでの人脈を繋ぐためにした行動と似ていることから、海外へ出発することは奇想天外な知恵を発揮して日本を出ていくのだと思いました。

資金は後に結婚する江戸京子さんの父が三井不動産社長だったことから、助けてもらうことができたそうです。

小澤征爾さんが23歳の時に、海外へ出発することができました。

いざ、出発する日に、恩師の斎藤秀雄さんが東京駅まで見送りに来て、トラベラーズチェックと一通の手紙を餞別に渡しました。

その手紙は紹介状で、「ミチコ・タナカ」という名前が書いてありました。

三井船舶の淡路山丸(あわじさんまる)という貨物船に特別に乗せてもらって、62日の渡航をしたようです。

貨物船なので、お客様は征爾さん一人だったそうですよ。

田中路子という人物は、斎藤秀雄さんと結婚を誓い合い、添い遂げられなかった元彼女です。

別れた後、欧米の社交界で華やかに活動していた田中路子さんへ、その思いを託したようです。

ヨーロッパで、指揮者のコンクールに参加して入賞をしていく小澤征爾さんを支えたのは、田中路子さんの存在がありました。

恩師・斎藤秀雄さんの紹介状を見ると、徹底的に支援し世に送り出す手助けをしたそうです。

世界の一流の音楽家との交流の橋渡しも、田中路子さんの支援があったと語られています。

プロフィール

名前:小澤征爾(おざわせいじ)

生年月日:1935年9月1日(82歳)

出身地:満州国(日本人です)

1935年は昭和10年で、その頃の日本は第二次世界大戦中にありました。

小澤征爾さんは、日本から開拓民として満州国(現在の中国の東北部)へ、渡った子孫のひとりです。

満州国は、1932年から1945年の間、存在した国家でした。

職業:クラッシック音楽の指揮者

最後まで読んで下さいましてありがとうございました。

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