Men 男性音楽

小澤征爾さんの結婚と離婚と再婚に見る華麗なる一族

投稿日:2018-04-30 更新日:

「世界のオザワ」と言われる指揮者、小澤征爾さんの若い頃は?

なぜ?を集めていたら、「世界のオザワ」は結婚と離婚と再婚をしていました。

その華麗なる一族は、家系だけではく人脈も凄いことから掲載していきます。

小澤征爾さんの初婚

ヨーロッパで、指揮者のコンクールに参加して入賞をしていく小澤征爾さんを支えたのは、田中路子さんの存在がありました。

恩師・斎藤英雄さんの紹介状を見ると、徹底的に支援し世に送り出す手助けをしたそうです。

世界の一流の音楽家との交流の橋渡しも、田中路子さんの支援があったと語られています。

また、ピアニストの江戸京子さんを妻に迎えたことから、今でいう「逆玉の輿」結婚をしています。

江戸京子さんの父は、三井不動産社長で、母はピアニストの弘子さんという裕福な一家にありました。

小澤征爾さんは、ヨーロッパに留学する時に、恩師の斎藤英雄さんと交わした約束には、江戸家は才能がある征爾さんにお金の援助をするが、自分の娘の京子には手を出さないで欲しいという約束を交わしているようです。

しかし、渡欧すると日本から持って行ったスクーターで移動しながら、野宿をしながらフランスの京子さんのもとへ行ったことが伝えられています。

生まれ育った環境が違う2人は価値観が違い過ぎることや、

音楽家同士の結婚は難しいといわれていることから、

2人の結婚には反対されたようです。

昭和36年、ニューヨーク・フィルの日本公演のために、2年ぶりに帰国しました。

この時に、2人は婚約を発表すると、翌年に、日比谷の三井新館のホールで披露宴を挙げた時は、マスコミでも大きく取り上げたといわれています。

仲人は作家の井上靖で、450人の有名人が祝いに集まったと語られています。

その後、ニューヨーク・フィルは成功を納めました。

小澤征爾さんのN響事件

小澤征爾さんは「N響事件」に触れられることが嫌いと伝えられています。

なので、ここでは私が知っていることを、少しだけ掲載します。

1962年(昭和37年)小澤征爾さんは、日本のNHK交響曲楽団(通称、N響)の指揮者に就任しました。

しかし「N響ボイコット事件」が勃発。

N響の楽団が小澤征爾の指揮する練習をボイコットしたことから

「N響ボイコット事件」と呼ばれています。

一言で済ませてしまえば、N響側の小澤征爾さんへのやきもちとされているようです。

N響側の言い分は、

  • 小澤征爾が指揮するにあたって基本的なミスが多い。
  • 遅刻が多い。
  • 楽団への横柄な態度

当時の、N響の楽団員は、東京藝術大学出身者が多く、官僚といった印象が強い楽団といわれています。

それに対して、小澤征爾は、突然現れた若い音楽家と言ったところのようです。

小澤征爾も妻・京子さんも、まさか糾弾されるとは思っていなかったようです。

マスコミからバッシングが続く中、親交があった作家で、元東京都知事の石原慎太郎さんや、歴史の人物の作家、三島由紀夫さんらが「小澤征爾の音楽を聴く夕べ」と題したコンサートを開いたことによって、イメージが少しずつ復活していったようです。

しかし、N響との間に深まった溝を、埋めることができず、和解は形だけのものとなり、活動拠点を日本から海外へ求めてニューヨークへ移り住んだことが語られています。

小澤征爾さんの新婚生活から離婚

ニューヨークへ移り住んだが、ニューヨーク・フィルの指揮者の人気は切れていたので無職だったようです。

夫婦は切り詰めた生活を送っていました。

1963年(昭和38年)アメリカ合衆国のシカゴ交響楽団が主催しているラヴィニア音楽祭の指揮者に欠員が出たことから、代役に抜擢されたことから、アメリカ合衆国ののクラッシック音楽に認められるようになっていきます。

次々と仕事が舞い込むようになり、トロント交響楽団の音楽監督に就任することが決まると、アメリカでの生活は華やかな舞台に押し上げられるようになっていったようです。

しかし、この間、妻はピアニストのキャリアを休んで、夫の小澤征爾さんに尽くことになってしまいます。

それは、「夫婦ともに、切磋琢磨して、良い音楽家を目指す」というバランスが崩れていくことから、すれ違うようになっていったようです。

夫の、小澤征爾さんは家にいるときは、体を休めたいと考えます。

妻の、京子さんは家にいる時はピアノの練習がしたいと考えます。

それから、家柄の環境の違いにも、すれ違う原因が隠れいていました。

小澤征爾さんの家族にとって、征爾さんは故郷に錦を飾った出世頭と言った存在から、コンサートでは目立つところで演奏を鑑賞するそうです。

妻の京子さんは、家族がなるべく目立たないように、客席の隅に座って静かに夫を見守ります。

また、征爾さんの母は、息子の征爾さんを喜ばせたいと、手料理を持って楽屋へ来ると、一家で喜んで明るく和気あいあいと楽しく過ごす中へ、入っていくことに戸惑いを感じたようです。

だんだんとお互いを思いやる気持ちが、薄れていくようになると、別々の道を歩むようになる流れは止められなかったようです。

1966年(昭和41年)離婚。

マスコミから、小澤征爾さん離婚報道が流れると、財産目当てとバッシングされる中で、義理の父だった江戸英雄さんは、今後も音楽家として支援したいことを述べ、父の心境としては、葛藤があったと思われますが、小澤征爾さんを非難することをしないという上品な紳士でした。

小澤征爾さんの再婚と二児の父

1968年(昭和43年頃)(離婚から1年半)ファッションモデルの入江美樹さん(征爾さんより9歳年下)を、妻に迎えました。

美樹さんは、ロシア人の血を引いていることから、子ども達も目鼻立ちがはっきりしています。

14歳からファッションモデルとして活躍し、当時のファッション雑誌の先がけ「装苑」(そうえん)の表紙を飾るトップモデルでした。

小澤征爾さんは美樹さんとの再婚から、華やかなクラッシック音楽のパーティーや、家庭でも安らぐことができたことから良きパートナーを得ることができたと伝えられています。

1970年(昭和45年)、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任。

この時、オープニングコンサートに行くことを、父の開作さんはとても楽しみにしていたそうです。

1971年(昭和46年)新日本フィルの常任指揮者に就任。

この年、長女、征良(せいら)がアメリカ合衆国サンフランシスコで生まれました。

長女の征良ちゃんが生まれた時、それまで音楽一筋だった征爾さんは、涙が溢れて幸せを噛みしめたそうです。

その後、ボストン交響楽団の常任指揮者に就任。

アメリカンドリームを掴んだ小澤征爾さんは、裕福な生活ができるようになると、両親や兄弟を招いてその成功をともに喜んだようです。

1974年(昭和49年)長男、征悦(ゆきよし)さんがアメリカ合衆国サンフランシスコで生まれました。

小澤征爾さんは、妻と子ども達、兄弟や両親など、身近な人々を大切した人生を歩んでいます。

きっと、前妻と築けなかった家庭の風景を、美樹さんに見出すことができたのだと思いました。

そして、前妻に苦労させてしまったことから、家族が安全に暮らせるように頑張り続けたのかもしれまん。

小澤征爾さんのコンサートで、一族が一列に揃って観覧する姿は、この頃から変わらないルールなのでしょう。

小澤征爾の生い立ちと家系の記事はこちら

最後まで読んで下さってありがとうございました。

りおさより

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
りおさ

りおさーチ

こんにちは りおさです。 サイト名「SALON DE RIOSA」はりおさの趣味の部屋です。普段はアトリエで物を作っています。ブログは子供の頃からプロフィールを収集することが好きだったので始めました。周囲にリサーチしていると「りおさの時間を短くしてリオサーチ」と呼ばれるようになったのが始まりです。 いろいろな世代の人が年齢や性別を気にせずに会話が弾んだら楽しいとおもったことがはじまりでした。 このサイトを訪れたあなたにとって、お気に入りのカフェにいるような、気軽な雰囲気でリラックスした時間を過ごしてほしいという思いを込めました。

-Men, 男性音楽

Copyright© , 2019 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.