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小澤征爾が世界のオザワと呼ばれる理由と指揮を振り続ける思いとは

投稿日:2018-04-30 更新日:

指揮者、小澤征爾さんが「世界のオザワ」と呼ばれる理由とは?

クラッシック音楽の先駆けとして世界で活躍する小澤征爾さんとはどんな人物?

小澤征爾さんの指揮スタイルが「動きが大きく立ち振る舞いが派手」になったきっかけは?

なぜ?を掲載しました。

【世界のオザワと言われる理由】

1939年から続く、ウィーンフィルハーモニーの、華やかなニューイヤーコンサートは指揮者の憧れの舞台です。

2002年(平成14年)に、指揮者として選ばれた人物が小澤征爾さんでした。

この年、アメリカからヨーロッパに活動拠点を移し、音楽監督を8年間、務められました。

2002年の秋にはウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任することが決まっていました。

これは、アジア人にとって、初めてのことで誉れとして世界に報道されました。

クラッシック音楽とは、西洋文化なのでアジアの人々には、遠い国の文化です。

アジアの人々が奏でるクラッシック音楽を、西洋の人々に受け入れられることは、本当に難しいことで、世界の一流の指揮者が憧れるウィーンフィルハーモニーの、ニューイヤーコンサートや、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に選ばれることは、日本だけでなく、アジアの人々にとっても、勇気と希望を与える存在となった人物が小澤征爾さんです。

「世界のオザワ」と言われるのは、こういった功績の積み重ねから。

2002年のウィーンフィルハーモニーでの、新年の挨拶を日本語ではなく、中国語で「シンニエンハオ!」と、述べたことからも、「初めての東洋人」としての印象を世界に示したようです。

父、開作の中国に対する思いを表現できたことが小澤家の誇りにもなったように思いました。

2006年(平成18年)小澤征爾さんは、体調を崩して休養を取りますが、その病気になる前までが一番大変だったそうです。

周囲から期待されると「できるんじゃないか」と思ってやれてしまうと語っています。

しかし、やっぱり疲れが出て、帯状疱疹が顔面から頭に出てしまったようです。

その時は、一年間に5回も風邪をひいたというから、そのような時でも出ていく小澤征爾さんは世界に必要とされ、音楽に愛された稀な音楽家ということがわかります。

休養後は日本で静かに活動したかったようですが、説得されてヨーロッパに戻っています。

この時、引きとめた人物とは、総支配人のホレンダーさんと、オーストリアの文化大臣です。

ホレンダーさんは、小澤征爾さんは同年代の1935年生まれだから、任期がある2010年まで頑張ろうと。

そして、同じ日に辞めたようです。

【中国と小澤征爾さんと父・開作と…】

昭和51年、小澤征爾さんの中国進出が実現しました。

満州(現在の中国)から引き揚げてから、35年ぶりに訪れる中国は感慨深かったでしょう。

その時の小澤征爾さんの挨拶

「自分は東洋人でありながら西洋音楽を勉強しました」

「今は、世界のいろいろな国で演奏をして活動しています」

「その間、苦しいこともありました」

「しかし、自分は中国に生まれたこともあり、中国の人々はどのように音楽をしているのかといつも考えていました」

父・開作さんが亡くなってから6年後に、子の征爾さんが中国へ行き、演奏するとはロマンティックなことです。

その後、小澤征爾さんは、中国のクラッシック音楽楽団員の音楽の技術を上げるために協力するような活動をしていきたいと考えたと述べています。

小澤征爾の生い立ちと華麗なる人脈記事はこちら

【小澤征爾の指揮のスタイル】

小澤征爾さんの指揮スタイルは、「動きが大きく立ち振る舞いが派手」と評価されることがあります。

まだ無名だった征爾さんは留学先のフランスのブサンソンで指揮のコンクールに応募した時のことです。

しかし応募締め切りが過ぎていたことから、日本大使館に頼みこんだり、アメリカの大使館に頼んだりして、強引なやり方ですが、ブサンソンの国際音楽事務所に交渉の場を持つことができたことが、コンクールへ出場することができたと伝えれています。

当時は恋人だったピアニストの江戸京子さんに助けられながら、コンクールの準備をしたようです。

小澤征爾さんは外国語が苦手だったので、オーケストラの指示もどのようにやるのか悩みながら準備したと伝えられています。

コンクールでは予選を通過して、本選で優勝しました。

この時のスタイルが、小澤征爾の指揮スタイルを確立したようです。

「語学が苦手なことから、誰にでもわかるように大きく指揮棒を振り、全身で音楽を表現しようとした」と語られています。

アメリカでもヨーロッパでも、指揮者コンクールで優勝すると、カラヤンやミュンシュ、バーンスタインなど一流の指揮者に師事されるようになり、小澤征爾さんの運の強さを感じます。

カラヤンの弟子になり、少し経つとアメリカの、バーンスタインのオーディションを受けて優勝してしまったことを、カラヤンに伝えると「行って来なさい」と送り出してくれたそうです。

カラヤンは「戻ったらまた教えてあげる」と言って送り出してくれたそうです。

カラヤンのところには4ヶ月くらいしかいなかったと言いますが、カラヤンは最後まで征爾さんを弟子だと言ってくれたというエピソードがあります。

ちなみにカラヤンが贔屓にした理由の一つには、田中路子さんの存在があったからという側面もありそうです。

【オペラとサイトウ・キネンさんと小栗哲哉さんと…】

ウィーン国立歌劇場(オペラ座)では、2002年に、しばらくぶりに音楽監督を置くことになりました。

そこで音楽監督に就任したのが、小澤征爾さんです。

音楽監督は指揮をするだけでなく、ウィーン歌劇場の方向性を考えることも仕事のひとつにあるようです。

小澤征爾さんは、最初はプレッシャーで大変だったとか。

このウィーン歌劇場に来て、オペラが好きになったそうです。

オペラの指揮はシンフォニーの指揮とは違うといわれています。

オペラは総合芸術で、脚本家や演出家や演じる人々、舞台セットや光を当てる人、ヘアさんやメイクさん、洋服をセッティングするスタイリストさんなど、音楽も含めて、統一感を持たせて一つの作品を作り上げていく。

体力がないとできないと小澤征爾さんは述べています。

表現力を意識して深く突き詰めるという作業はオペラの影響があったそうです。

小栗哲哉さんという人物は、俳優・小栗旬さんの父です。

一緒に仕事をしたということは調査中ですが、小栗哲也さんは舞台監督で世界で活躍しています。

ウィーン国立歌劇場や、サイトウ・キネン・フェスティバル松本などを手がけていることから、小澤征爾さんと交流があるかも知れません。

この「サイトウ・キネン」の由来は、斎藤秀雄先生を記念にオーケストラをするのだそうです。

斎藤秀雄さんは、日本にクラッシック音楽の伝統がない中で、一人でドイツに留学してチェロの勉強をして、指揮も勉強して日本に帰国した人物で、とても厳しい先生だったと語られています。

しかし、東京都市ヶ谷の東京家政学院で、「子どものための音楽教室」を創立すると、その子どもたちが中学、高校へ進学するので、桐朋学園を設立したという教育に生涯を捧げた熱心な人物です。

日本がアジアの先駆けとして、欧米で認められるようになった背景には、斎藤英雄さんや小澤征爾さんのような人物が、生まれ持った才能を引き出す努力を惜しまなかったからだと思います。

「世界のオザワ」と呼ばれるようになっても、真摯に音楽と向き合い、高齢になり体調を崩しても、世界で活躍することを期待され続ける小澤征爾さんを掲載したいと思いました。

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【指揮者の身体】
  • 指揮者の手

小澤征爾さんの指は指揮棒を持たなくなってから、譜面台に指をぶつけることが多くなって、指の骨がずれてしまったり、節が膨れたりしているようです。

  • 集中力

精神力を支える体が大事で、血の巡りには気をつけているそうです。

調子が悪い時は、ダメだと言い、そういう時は休んだ方が良いと述べています。

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最後まで読んで下さいましてありがとうございました。

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