伝統・王族・皇室

紀子妃殿下の名前の由来と壮絶な歴史のルーツとは?

投稿日:2018-05-13 更新日:

昭和から平成に御代が変わる時、突然現れた(旧姓)川嶋紀子は、世の中の憧れの女性NO.1となりました。

民間から皇室へ嫁ぐことから庶民的な印象があった紀子妃のルーツは由緒ある武家と商家の一族にあったようです。

紀子(きこ)妃の名前の由来には、素敵な祖母の存在と土地のルーツがありました。

紀子(きこ)妃の曾祖父は大阪市長を3期務めた池上四郎さんで、妻・浜さんは夫を献身的に支えました。

この2人の恋のキューピットとなったのは、西郷隆盛の弟・従道さんと伝えられています。

もしも、2人が人生のパートナーでなかったら、紀子(きこ)妃は、生まれていなかったかも知れませんね。

紀子さまの名前の由来

紀子を「のりこ」と呼ばず、「きこ」と読むことはめずらしい。

  1. 「きこ」と呼ぶ理由の一つには「紀州」(和歌山県にあるそうです)

川嶋家の祖先は和歌山県あり、昔は紀州と呼ばれていました。

「紀州」の地名から「紀」をとって「紀子」(きこ)と命名したと伝えられています。

2.紀子(きこ)妃の祖母・紀子(いとこ)さんの名前を付けたそうです。

紀子(きこ)妃の母・和代さんは、お姑さんの紀子(いとこ)さんを尊敬していたことから名づけたと言われています。

祖母・紀子(いとこ)さんの父は大阪市長

紀子(いとこ)さんの父は、大阪府知事を約10年近く務めた池上四郎さんです。

池上四郎さんは壮絶な人生と、幼少時代から国のために走り続けた人物として知られています。

池上四郎さんは(福島県)会津藩士の子として生まれました。(武士の子どもです)

江戸時代末期(幕末)では、歴史にある京都の鳥羽伏見の戦いで兄・池上友次郎が戦死。

新潟県の越後小千谷の戦いでは父・池上武輔が負傷。

越後小千谷の戦いは、井深宅右衛門が率いる遊撃隊に、池上武輔が加わっています。

井深宅右右衛門は会津藩士(武士)で、ソニー創業者の井深大(いぶか まさる)は末裔になります。

池上四郎さん(11歳)は、戊辰戦争を経験し、兄と共に会津若松の城に籠城して官軍と戦いました。

若松城(通称・鶴ヶ城)に、攻め込んできた官軍の中には、

佐賀藩士の美智子皇后の母方の曾祖父がいたそうです。

ちなみに雅子妃の先祖も佐賀藩士です。

戊辰戦争で会津は敗戦しました。

年号は江戸時代から明治時代に変わります。

明治政府に会津藩を没収されると、斗南(となみ)「現在の青森県むつ市」に移住させられました。

高齢者も船を乗り継いだり、歩いて荷物をひいて移住する途中に息を絶えた人々が多くありました。

斗南(青森県むつ市)の生活は痩せた土地を開拓して農作業の生活だったので、開拓の途中で寒さと食べるものがなくて次々と亡くなっていきました。

池上四郎さんも父と兄・三郎とともに斗南の生活をよぎされました。

会津藩は学問に力を入れた藩だったので、子ども達に勉強させいと大人たちは明治政府に掛け合いますが、なかなか実現できませんでした。

池上四郎さんの父・池上武輔さんは子ども達になんとか学問をさせて、新しい時代に役に立つ人物になってほしいと思い、斗南からでることを決意します。

斗南で貧困の中で力を合わせて開拓しようとする、会津の仲間を見捨てるとか裏切ることに見られてしまうことになってしまいました。

でも父・池上武輔は自分は斗南に残るから子どもたちは斗南を離れて学問で身を立てるように背中を押します。

子どもだった池上三郎さんや四郎さんは、高齢の両親や会津の友人や仲間のことを思えば、東京を目指すことは涙を流したことを想像します。

上京すると努力をして兄・三郎さんは司法の道に進み、四郎さんは警察の道に進みました。

池上四郎さんは20歳で巡査になり、その後は警部として石川県や富山、東京、京都と転勤を繰り返し、大阪府警察部長に就任しました。

大阪府警察部長の仕事ぶりが高く評価されて、大正2年に大阪市長になります。

在任期間は3期で約10年、大阪のために働きました。

現在の大阪の礎を築いたのは池上四郎さんと伝えられています。

都市計画や福祉に力を入れました。

当時は福祉という概念は行政になかったそうです。

池上四郎さんは、

  1. 幼少時代から鳥羽伏見の戦いで兄を亡くし
  2. 戊辰戦争では11歳の若さで会津の城に籠城して戦い
  3. 敗戦後は斗南(現在の青森県むつ市に移住して)で苦難を強いられたこと
  4. 大人たちが子どもの将来のために、学問をさせたいと願ったこと
  5. 高齢の両親を斗南に残して上京すると身を削って努力したこと
  6. 戊辰戦争の敗戦は理不尽にも賊軍になってしまったこと

池上家の人々は、子どもの頃から、飢えの苦しみや、会津藩士が味わった苦しみを背負い、学問に励んで父の教えで、新しい世の中に役に立つことで身を立てることをモットーに力を尽くした人物です。

大阪市長に就任すると大坂の人々に寄り添った政策を次々と打ち出し、都市計画と福祉に力を注ぎました。

常に弱い者の立場になって考え、利権を求めず、休みを惜しんで働いたそうです。

その後、田中義一が総理大臣になったために、朝鮮へ任命され旅立ったがこの時の過労で、昭和4年に東京で倒れたまま息を引き取ったそうです。

幼少時代から71歳まで、国のために精一杯走り続けた生涯でした。

末裔の紀子(きこ)妃も、皇室に嫁がれると国民のために完治しないまま政務に励む姿があります。

紀子(きこ)妃のルーツをたどると、それぞれが国のために働き続けたことがわかります。

紀子(いとこ)さんと紀子(きこ)妃殿下

紀子(いとこ)さんと、紀子(きこ)妃は、顔や性格などがよく似ているそうです。

紀子(きこ)さんの母の和代さんがお姑さんの紀子(いとこ)さんを尊敬する理由には、一般人の私もお手本したい憧れが詰まっています。

こんな祖母を身近に感じることができた紀子(きこ)妃が羨ましいです。

母の和代さんが娘の紀子(きこ)妃に、お姑さんの紀子(いとこ)さんの名前を付けたことがわかるようなエピソードがありました。

紀子(いとこ)さんの父は、大坂市長の池上四郎さんです。

池上四郎さんは、昔の武士の生活を残していたようです。

私の祖父も同じ生活様式でした。

それは、普段はお座敷で一人で食事をします。

家族で食事をする時でも、長男から順番に座り、父や長男が箸をつけるのを見届けてから食事します。

池上四郎さんは江戸時代末期から昭和時代に生きた人物ですが、私も父の実家に遊びに行くと祖父と食事を共にした記憶がありません。

男性だけがお座敷で席が決まっていて、食事をしていました。

女性は土間で、女性同士で食事をとりました。

池上四郎さんの家庭は日曜には郊外へ出かけた時だけ、家族全員で食事をしたそうです。

その時に、紀子(いとこ)さんが「田舎の子どもが…」と話すと、

父の池上四郎さんに「土地の子どもは田舎の子どもと言われて、いい気持ちがしないものだ」と語ったそうです。

過疎化した村の子どもの気持ちまで察して、言葉を選び話すことに尊敬したとあかしています。

紀子(いとこ)さんが、生涯にわたり、生活する中で何気ない一言で、お相手に嫌な思いをさせないように配慮することをモットーにしたことを「亡き父の思い出」に綴っていました。

池上四郎さんは、赴任先で出会う貧しい人々の気持ちを常に感じることができたのは、会津藩士という壮絶な戦いを経験し官軍から一転して逆臣と言われ、斗南に移り住み開拓に励んだ末に亡くなったり、苦難を強いられた高齢の両親や仲間を思うことにあったのだろうと想像します。

紀子(きこ)妃が常に、微笑みを絶やさず、か弱い身体でもご公務に積極的に励む姿には、母・和代さんや祖母の紀子(いとこ)さんのような、強くて優しい女性たちに育てられたからだと思いました。

紀子妃と礼宮文仁親王の婚約は、昭和から平成の時代が変わる時の記事はこちら

池上四郎と妻・浜を取り持ったのは西郷隆盛の弟だった

池上四郎は努力に努力を重ねた、元会津藩士(武士)の血脈の人物です。

実は、妻・浜さんとは再婚同士で結ばれています。

この2人を取り持ったのは、西郷隆盛の弟・従道です。

妻・浜さんの父は、小菅 智淵(こすげ ともひろ)です。

陸軍参謀本部の初代陸地測量の部長を務めた人物です。

日本全国の測量を進めて、5万分の1の地図を制作する基礎を築きました。

小菅家は江戸時代に徳川の幕臣の家柄です。

戊辰戦争では、幕臣として会津藩に加勢したそうです。

会津若松の城で戦った時には、池上四郎とともに戦ったことがわかっています。

浜さんの父・小菅 智淵(こすげ ともひろ)さんは、新選組の副隊長・土方 歳三(ひじかた としぞう)と共に、若松城を抜け出し、仙台から榎本 武揚(えのもと たけあき)の軍艦に乗ると、北海道の函館に渡って五稜郭(ごりょうかく)で戦った人物です。

小菅 智淵(こすげ ともひろ)さん北海道の函館の五稜郭で戦ったことから、最高司令官としての罪を問われて処刑されそうになると、薩摩藩士の黒田清隆が処刑を取りやめるように働いて命が助かったと言われています。

官軍時代に徳川の幕臣として江戸の昌平学問所で学び、西洋の科学技術や数学など工学に秀でていたことから、戊辰戦争の後で明治政府で力を尽くして欲しいということがあったようです。

2018年、NHK大河ドラマ「せごどん」は西郷隆盛が主人公ですが、弟の働きまでは放映するのでしょうか?

紀子(きこ)妃は、西郷隆盛の弟・従道さんの存在がなければ、紀子(きこ)妃は存在しなかったのかも知れませんね。

最後まで読んで下さってありがとうございました。

りおさより

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
りおさ

りおさーチ

こんにちは りおさです。 サイト名「SALON DE RIOSA」はりおさの趣味の部屋です。普段はアトリエで物を作っています。ブログは子供の頃からプロフィールを収集することが好きだったので始めました。周囲にリサーチしていると「りおさの時間を短くしてリオサーチ」と呼ばれるようになったのが始まりです。 いろいろな世代の人が年齢や性別を気にせずに会話が弾んだら楽しいとおもったことがはじまりでした。 このサイトを訪れたあなたにとって、お気に入りのカフェにいるような、気軽な雰囲気でリラックスした時間を過ごしてほしいという思いを込めました。

-伝統・王族・皇室

Copyright© , 2019 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.