伝統・王族・皇室

デヴィ夫人の出生とスカルノ大統領のなれそめとパリ社交界デビュー

投稿日:2018-07-02 更新日:

こんにちは りおさです

デヴィ夫人は自身の壮絶な生い立ちをあかしました

一般の普通の家庭に生まれた少女が夢見たことは

フランス・パリで社交界に行くことでした。

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デヴィ夫人は日本人です

どんな経緯からインドネシアの元初代大統領スカルノに見初められたのでしょう?

その後、子供の頃に夢見たパリ・社交界デビューを果たしました

デヴィ夫人の生涯は数々の偶然を成功へ舵を切った成功者です

(ここでは、ざっくり書いています。)

(詳細にしたお話しは別のサイトで紹介していきます。)

お楽しみに!

デヴィ夫人の出生とデヴィ夫人になるまで

デヴィ夫人の出生

日本人の両親に生まれ東京で生まれ育ちました

日本名を根本七保子(ねもと なおこ)さんといいます

お父さんについて

父の名前は根本兵七郎さん

出身は茨城県平磯町の漁業の家に生まれました

デヴィ夫人のお祖父さんは二男だったので後を継がず船大工になりました

デヴィ夫人のお父さんは漁師や船大工を継がずに上京したそうです

子供が4人になると2階建ての家に移り住みました

2階を人に貸して生活の糧にしたそうです

のちに、この2階を借りた女性との間に生まれたのがデヴィ夫人です

お父さんの仕事について

職業は大工の棟梁をしていました。

お父さんの名前は根本兵七さん(ひょうしち)

戦争が終わると大工の仕事が思うようにできなくなりました

戦時中に出回った「ルチルアルコール」を飲んだことがきっかけです

視力を悪くして働けなかったそうです

お母さんが内職をして家計を支えていました

(お父さん)根本家のルーツとは

茨城県の平磯町の根本さんは元々は武士でした

関ヶ原の戦いで中立の立場をとったために敗戦

平磯町で業業を営んだそうです

徳川家に就いていれば大名だったかもしれません

デヴィ夫人の実家

東京都港区西麻布の小さな借家に住んでいました

お父さんの職業は大工さんです

現在の東京都港区麻布周辺の木造建築を手掛けていたようです。

当時の麻布周辺は田畑が広がるのどかな地区で

カエルの鳴き声が多く聞こえました。

お母さんについて

母の名前は根本政子さん(まさこ)

1896年生まれ(明治時代生まれです)

「まさ」さんとも呼ばれています

昔は「子」とつける人は格上の人の意味あったり

守りの字としても使われたようです

旧姓は笠原です

お母さんの出身は千葉県の農家の出身でした

現在も大きな農家を営んでいます

政子さんの子供の頃

子供の頃、柿の木から転落して右足に重い障害が残ってしまいました

千葉医大で手術したそうです

足が不自由だったので尋常高等学校を中退

地元で美人で有名だったそうです

お母さんの経歴

  • 19歳で結婚して女児を出産

子供(女児)を早世

その後、離婚

  • 30歳の時に再婚

子供(男児)を授かりますが2か月で早世

その後、離婚

  • その後、一人で暮らして裁縫で生計を立てていました
  • 仕事を求めて東京の麻布に上京

職場の近くで部屋を探してもなかなか部屋を貸してもらえませんでした

何か事情がある女性と思われたからだといわれています

両親の出会い

デヴィ夫人のお父さん(根本兵七さん)の

自宅2階を借りることができました

その頃の兵七さんは妻と5人の子供がいました

政子さんが2階に引っ越してから半年がたったころ

兵七さんの妻が逝去

5人の子供と視力が弱っていた兵七さん一家だったので

政子さんは兵七さんの家事をするようになったようです

3年がたったころ、親戚の勧めで2人は再婚

両親の年齢は2人とも45歳だったそうです

2人に子供を授かりました

それがデヴィ夫人です

兵七さんの7番目の子供なので

七保子と名付けられました

弟の名前は根本八曾男さん(’やすお)です

幼少時代

東京の西麻布の小さな借家で過ごしました

デヴィ夫人は貧乏な子供時代を過ごしていました

その理由は戦争中だったからです

デヴィ夫人が生まれた頃の日本は

太平洋戦争中にありました。

疎開について

福島県浪江に疎開していた経験があります。

1945年(昭和20年頃)

福島県浪江は東日本大震災で一番被害が大きかった場所です。

原発事故のために現在も家に帰ることのできない世帯が多くあります。

デヴィ夫人は弟とお母さんと疎開しました

お母さんは足をひきづりながら

デヴィ夫人と弟をつれて空爆から逃げたそうです

逃げた場所は地元の人でいっぱいで入れてもらませんでした

お母さんは子供だけでも助けて下さいと

土下座をして避難場所に入れてもらうことができました

終戦が終わると麻布に戻りました

焼け野原になっていましたが自宅は残っていたそうです

幼少時代の食事は?

デヴィ夫人の家庭の食事は

ごはんとお味噌汁が定番メニューです

お味噌汁の具は

道端にはえている野草(食べられる草)を摘んでいました。

昭和初期の日本の一般家庭の食卓では

ごく一般的なメニューです。

デヴィ夫人は自分は貧乏だったとあかしました

その頃の日本は戦時中だったので

みんなお腹をすかせていました

今でも私達の口に入る野草は、

つくしやオオバコやよもぎなどがあります。

よもぎ餅などにも使われます。

今でもオトギリソウはケガした時のお薬にもされています。

子供時代のデヴィ夫人

健気なカワイイ女児でした

デヴィ夫人の性格

子供の頃から責任感が使ったそうです

弱者を守りたいという意識が強い女の子でした

小学校時代

小学校時代にお母さんはデヴィ夫人の同級生のお母さんに給食の代金を借りていることを知りました

お母さんを助けてあげたいと一生懸命に考えたそうです

当時はソックスを右足と左足の違うものを履いていたこともあったとか

学校の行事に参加することは自由参加だったのでデヴィ夫人は行かなかったそうです

デヴィ夫人は1人で絵を描くことが好きだったそうです

デヴィ夫人のの子供の頃の夢は

フランスパリの社交界デビューすること

話す言葉は?

子供の頃から上から目線!

その理由は

読書にありました

趣味について

特に西洋文学に憧れていました

愛読書は?

ロミオとジュリエット

デヴィ夫人は西洋文学の登場人物・貴族の恋に憧れていました。

何回も読んでセリフを丸暗記したとか

そのせいで普段から

上から目線の話し方になったとあかしました

今のような言葉は子供の頃から話していたとは

なんとも驚きです

子供の頃の夢と語学

フランス・パリの社交界に憧れていたデヴィ夫人は

フランス語を勉強したいと思うようになりました。

その頃の日本はフランス語を教えてくれる人は

デヴィ夫人の周りにはいませんでした。

そこで英語を独学で勉強したそうです。

周りに英語が話せる人がいると、自ら話しかけたそうです。

少しずつ英語力が上達していきました。

中学時代

デヴィ夫人は

フランス・パリ社交界デビューの夢を叶えるために

何をすればよいのかいつも考えたそうです。

お金持ちにいつ出会ってもいいようにいいようにしておきたいと考えとか

富豪に慣れるためにはどこに行けば会えるのかをいつも考えていました。

卒業後の進路は

働きながら学校に行くことにしました

弟を大学まで入れようと思ったそうです

弟は早稲田大学に進学することができました

自転車競技を頑張っていました

デヴィ夫人はアメリカに留学させたかったそうです

お母さんを早くラクさせてあげたいと思いました

インドネシアで自分のおこずかいから仕送りを続けていたそうです

母と弟の逝去

デヴィ夫人が21歳の頃

お母さんが65歳でなくなりました

その2日後に自ら命を絶ってしまいます

弟の死の原因はわかっていないそうです

お母さんのショックだという人もいるし

大学の人間関係に悩んでいたという人もいるようです

デヴィ夫人は1度に2人を亡くしてしまいました

日本に帰国することができましたが

葬儀が終わってインドネシアに向かいながら

母は往生だったけれど

弟は助けることができたかもしれないと自分を攻めました

翌年、スカルノ大統領の正式な第三夫人になります

高校時代

中学校を卒業すると

東京都立三田高等学校定時制に進学

夜は学業、昼はアルバイトを掛け持ちして

家計を支えていました

千代田生命(現在のジブラルタ生命)に

150倍の倍率を突破して入社しています。

他にもアルバイトをかけ持ちしていました。

高校中退後

1956年、父(59歳)が亡くなったことから高校を中退

それまでの10倍の給料を求めて学校を中退しました

デヴィ夫人(17歳)は、

高級サパークラブ・コパカバーナに働きに出ました。

(コパカバーナとは、赤坂の有名な高級クラブの名前です)

お客様の10人のうち5人は政界の人物だったそうです

日本や海外からの一流の人々が集った高級クラブです。

100人以上も女性が働いていたとか

家に帰ると袖からチップ(お金)が落ちてきたそうです

デヴィ夫人はトップクラスの美人だったとか

英語とダンスを努力して覚えて稼ぎ、家計を助けました

インドネシアスカルノ大統領とのなれそめ

1959年(昭和34年)6月のある日のこと

デヴィ夫人(当時は根本七保子さん)は

友人と日比谷で映画を観るために

帝国ホテルでコーヒーを飲んでいました。

目の前を軍人の集団が通り過ぎた時に

「今日は何があるんだろう」と思ったそうです。

軍人の集団の一人が

デヴィ夫人に近づくと

パーティに誘いました。

その軍人は必死に「プリーズ、プリーズ」懇願しました。

「あなたと話したい人がいる」と言われたそうです

デヴィ夫人は断るつもりでいたそうです。

「何この人、ちょっとガッツキ過ぎなんだけど!」と思ったそうです。

でも、デヴィ夫人は軍人の真剣さに

パーティに出席することにしました。

初代スカルノ大統領との初対面

デヴィ夫人は、パーティに行くと、

花の香りがする大きな部屋に通されました。

その時、声をかけてきた軍人が「女性をお連れしました」と大きな声をだしました。

すると一番奥の席に座っていた男性が「スカルノ大統領」でした。

スカルノ大統領の第一印象

デヴィ夫人は、これまで出会った人の中で

威厳が違っていたことを語っていました。

ひざがガクガクしたそうです。

2人で話しをした時のこと

1時間ほど2人で話しをされましたが、

何を話したのか今でも覚えていないそうです。

覚えているのは、

「紅茶はミルクとレモンどちらにしますか?」

デヴィ夫人は

「レモン」と答えたそうです。

18歳の時、スカルノ大統領と文通をして愛を育みました。

出会いから2ヶ月後

(デヴィ夫人19歳)

インドネシア人に来て欲しいと手紙がきたそうです

極秘でインドネシアに渡航しました

親族のみに知らされていたそうです

パスポートの理由

当時の日本は気軽に海外に旅行する時代ではありませんでした

スカルノ大統領の婚約者としてはパスポートが取得できなかったそうです

デヴィ夫人は看護師さんの理由で取得できたそうです

でも官邸に日本人の若い女性がいるのはおかしいと言われるので

スカルノ大統領の官邸に出入りできる日本人の妻と建前にしたそうです

プロポーズ

その後、休日にバリの離宮で

プロポーズされてご結婚されました。

プロポーズの言葉は

(結構長くて覚えられませんでした)

わかりやすくすると

「私の人生の喜びとなって下さい」

デヴィ夫人がプロポーズを決めた理由のひとつには

ロマンティックな言葉にあったと話されていました。

この頃のデヴィ夫人は他に2人の男性からもプロポーズを受けていました。

  • 1人目

アメリカの大富豪

3.5カラットのダイヤモンドを頂いたそうです。

  • 2人目

フィリピンの大富豪

フロリダのオレンジ農園を全部あげるといわれたそうです。

  • そして3人目

インドネシア初代スカルノ大統領

1962年(22歳)ご結婚されました

デヴィ夫人は「東洋の真珠」と表現されました

名前の由来

インドネシアの名前を名乗りました

インドネシアの名前

ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ

(Ratna Sari Dewi Sukarno)

通称・デヴィ夫人です。

名前の由来

ラトナ=宝石

サリ=精(妖精)

デヴィ=女神

スカルノ=夫人

宮殿について

母と弟を亡くした翌年

スカルノ大統領の第3夫人に正式になりました

東京ドームがすっぽり入るほどの宮殿を与えられました。

やすお宮殿と名付けました(1万6000坪の敷地)

現在は軍事博物館となっているそうです

スカルノ大統領と外交を果たしていきました

9月30日事件(昭和40年9月30日)

デヴィ夫人はインドネシアにきてから6年目の頃です

9月30日はスカルノ大統領と一緒にいました

官邸に送り出すと兵士がやってきて

「昨夜、反乱がおきました」

「宮殿から出ないでください」

スカルノ大統領に不満を持った人が反乱を起こしました

この時はスハルト将軍が鎮圧しました

この時からスハルト将軍が勢力を表すようになると

スカルノ大統領の印象を悪くしていきました

誰が見方で誰が敵かわからなくなったそうです

デヴィ夫人への風当たりも強まりました

その頃はズボンを履いて、いつでも出て行けるようにしていたそうです

デヴィ夫人はスカルノ大統領を守るために行動にでました

スハルト将軍をゴルフに誘いました

スカルノ大統領を支えて欲しいを頼んだそうです

しかしスハルト将軍は耳を貸しませんでした

デヴィ夫人は当時を振り返ると

スカルノ大統領と陸軍を結びつけることに奔走したそうです

子供(カリナ)について

日本でカリナさんを(女児)を出産

デヴィ夫人が妊娠をしていることがわかると

インドネシアは危ないので日本で出産しました

日本で出産することはスカルノ大統領の意思だったそうです

「安全な日本で子供を育てて欲しい」

カリナさんが2歳になる頃まで日本で過ごしたようです

俳優・津川雅彦(29歳)

デヴィ夫人(29歳)

カリナさん(2歳)を連れて帰国

津川雅彦さんはその頃、独身でした

当時はスカルノ大統領(70歳)が生きていたので不倫として取り上げられています

デヴィ夫人は結婚を悩んだそうです

インドネシアに残している

病気がちなスカルノ大統領と離婚することはできないと考えました

大物俳優と大統領夫人の恋はマスコミに追いかけられ

悩んだ末、カリナさんとヨーロッパ(スイス)へ旅立ちました

別れの原因は

デヴィ夫人を追いかけてスイスに行くと

社交界で華々しく堂々としているデヴィ夫人を見て

津川雅彦さんは住む世界が違うと気が付いたそうです

その後、1973年に朝丘雪路さんとご結婚されました

その半年後、フランスへ渡りました

インドネシアの入国を禁じられていました

インドネシアの空港までたどり着きました

クーデターの影響で空港には厳戒態勢がとられていました

スカルノ大統領と再会を果たすことができました

昭和45歳(69歳)で逝去

デヴィ夫人(30歳)

フランス社交界デビューと恋の相手とは

1965年

インドネシアでクーデター(政変)が勃発して

スカルノ大統領が失脚

デヴィ夫人は

それまで第3夫人として与えられていた

邸宅や財産などが没収されてしまいました

デヴィ夫人は子供を宿したまま

行く場所がありませんでした。

フランスへ行こうと思いつきました。

デヴィ夫人が

フランス・パリの社交界で

成功した理由とは?

  • スカルノ大統領に付き添っていろいろな人に会ったので、

その人脈を活かしました。

スカルノ大統領には数人の夫人がありました。

その中で、語学ができる女性は2~3人だったようです。

デヴィ夫人は、外交に付き添うことがあったと

話されていたことがありました。

  • フランス語や英語が話せたことも大きな要因になっています。

インドネシアに海外からの要人が来ることを知ると、

スカルノ大統領は、どの夫人を指名されるのだろうと

ワクワクしていたようです。

フランス語について

インドネシア大統領夫人の時、

暇だったので何もすることがなかったので、

フランス語を勉強していました。

フランス・パリの社交界

デヴィ夫人は、

住むところも財産もすべてなくしてしまいましたが、

潤沢な人脈と語学力で子供の頃から夢だった

フランス・パリの社交界デビューを叶えました。

俳優・アランドロンと交際

デビ夫人(30歳)

パリのマキシムで食事をした思い出を語られています

日本でのタレント活動について

日本でタレント活動するきっかけは

歌手・美川憲一さんにありました。

当時、美川憲一さんはみのもんたさんと

番組に出ることが決まっていました。

女性を1人起用したいと考えていた時に

デヴィ夫人が候補にあがり、依頼を引き受けました。

実はこの時、歌手のアン・ルイスさんが候補にあがっていましたが

アン・ルイスさんは

アメリカに滞在していることや

体調を理由に断ったと伝わっています。

その後、次々と芸能活動の依頼が入ってくると

デヴィ夫人の肩書は「タレント」と呼ばれるようにりました。

タレントとカテゴリーされたことを、

はじめはショックだったそです。

そこで発想の転換をして

タレントと思われているなら、

余生をタレントとして楽しく生きようと思ったと話されました。

プロフィール

名前 デヴィ・スカルノ

旧姓 根本七保子(ねもと なおこ)

  • 通称 デヴィ夫人

インドネシアの名前

ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ

(Ratna Sari Dewi Sukarno)

生年月日 1940年2月6日

出身地 日本東京都港区麻布

国籍 インドネシア

結婚歴

夫は初代インドネシアのスカルノ大統領

デヴィ夫人は第3夫人

子供

一人娘

語学

  • 母国語
  • 日本語英語
  • インドネシア語
  • フランス語

職業

元インドネシア・スカルノ大統領夫人

日本ではタレント活動されています。

NPO法人・アスエイドソサエティ総裁

株式会社デヴィーナ・ソサエティ代表取締役

インドネシアの人々は今でもデヴィ夫人を覚えていました

第三夫人としてスカルノ大統領に可愛がた人物とされています

勇気のある女性として人気があります

最後まで読んで下さいましたありがとうございました。

りおさより

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こんにちは りおさです。 サイト名「SALON DE RIOSA」はりおさの趣味の部屋です。普段はアトリエで物を作っています。ブログは子供の頃からプロフィールを収集することが好きだったので始めました。周囲にリサーチしていると「りおさの時間を短くしてリオサーチ」と呼ばれるようになったのが始まりです。 いろいろな世代の人が年齢や性別を気にせずに会話が弾んだら楽しいとおもったことがはじまりでした。 このサイトを訪れたあなたにとって、お気に入りのカフェにいるような、気軽な雰囲気でリラックスした時間を過ごしてほしいという思いを込めました。

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