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孫正義(ソフトバンク)の国籍と一族の思想と衝撃的な生い立ち

投稿日:2018-10-19 更新日:

このブログは長編ですが盛りだくさんにしました

孫正義さんの一族と思想から国籍についてを書いて行きます

孫正義さんはソフトバンクの創業者です

本社は東京汐留の高層ビルのオフィスフロア最上階(26階)にあります

晴れた日には房総半島まで見渡せるそうです

孫正義さんはライバル企業のNTTやKDDIのエリートではありません

そもそも出自が違います

その孫正義さんは「僕は生まれ育った日本が好きです」といいます

日本のITを利益だけでなく貢献しました

結果だけでいえばNTTから光回線だけを分離し、通信各社が共同で利用できるインフラ機関をつくるというNTTからすれば虫のいい孫正義さんの提案は退けられました

孫正義さんはTwitterに「私がこき下ろされるのは構わない。笑われてもいい。ただ、日本の将来が笑われないようにしなければ」

「電波は私の命をかけて必ずドコモを超える。見ていてください」

ここでは孫正義さん(在日三世)について掲載します

孫正義さんの生い立ち(佐賀県)

孫正義さんhttps://media3.picsearch.com/is?jnpyz-nawTJq0pkJGb_HcdijonFdIRjJzlII7v_QC7E&height=281

孫正義さんが生まれたのは1957年(昭和32年)

佐賀県鳥栖駅(とす)に隣接した番地もないといういう意味で無番地とつけられた朝鮮部落に生まれました

そこでは豚小屋の奥でこっそりつくられる密造酒の強烈なにおいの中で育ったそうです

そこに生まれ育った人が在日三世の孫正義さんです

今では日本将来を左右するトップリーダーとなっています

孫正義さんの一族を調べると尋常ではない個性あふれることがわかります

ソフトバンクの家族団らんや白色を基調とした

クリーンな印象とは正反対の生い立ちです

そのギャップを書いて行きます

1955年:父・三憲さんと母・玉子さんが結婚

  • 両親の年の差は?

16歳ぐらい父親が年上

  • 両親のなれそめ

孫正義さんの両親が出会ったのは

豚の買い付けで知り合い、父・三憲さんの一目ぼれだったそうです

双方の祖父同士が知人だったので

玉子さんの意思とは別にまとまってしまったといわれています

  • 父親・三憲さんの生まれたのは?

1936年(昭和11年)生まれです

出生は2つの説があります

  1. 日本に生まれた説
  2. 韓国で生まれた説

当時は在日とわかるとイジメにあったので日本で生まれたことにしたかたっともいわれています

その①

日本に渡ってきたのは4歳の時だと言われています

戦時中、韓国の土地はほとんど日本軍に接収されてしまったので小作人は稼ぐために日本に渡った人が多くいました

子ども三人を残して日本に渡り、三憲さんが4歳の頃に迎えにきたそうです

その②

父・三憲さんが生まれた地は

佐賀県鳥栖市の「基里」(きざと)の大野という地区です

大野という地区は

当時、朝鮮人たちが小さな部落を作っていました

幼い頃、一度は韓国に渡りましたが仕事がなくて日本に戻ってきたという説があります

  • 母親・玉子さんは?

旧姓は(日本名)国本さんといいます

韓国の名前は「季」さんです

福岡県北九州市と鳥取県の境に住んでいました

韓国では農業で生計をたてていました

強制的に日本に連れられていたといわれています

家業は日本では三井山野で炭鉱の仕事に就いていました

後に、パチンコ店の経営に乗り出しますが失敗しています

  • 母親・玉子さんの性格

兄妹の中で一番のしっかり者

美人でオシャレで評判だったとか

若い時は歌手・美空ひばり(故)さんに似ていたそうです

東京の芸能プロダクションのスカウトが

菓子折りを持って玉子さんを訪ねてきたこともあるそうです

両親の反対で芸能界は入りませんでした

孫正義さんの両親は離婚

孫正義さんの母・玉子さんは

嫁いでからは夫婦喧嘩が絶えません

本当は仲が良かったという人もいます

お姑さん(義母)との相性が悪かったこともあって

別居の後、離婚しているようです

家のしきたりが違い過ぎていたことも不仲の原因のひとつだったとか

三憲さんは稼いだお金を玉子さんには預けなかったそうです

全部お母さんに渡して、その中から玉子さんは貰っていました

食事する時も実家では家族で食卓を囲みます

嫁いだ孫さんの家は

男性は座敷の上座で食事をし、

女性は男性が食べた残飯を土間で食べるそうです

玉子さんはとても苦労されました

  • 三憲さんの性格が変わった理由

三憲さんは7人いる姉や妹たちに自分の軒先を貸して商売のノウハウを教えました

成功すると三憲さんの商売の邪魔をするようになったそうです

身内に裏切られたと

次第に人を信じられなくなり

お酒の量が増え、

仲の良かった妻に対しても冷たく接するようになったそうです

孫正義さんを妊娠した時にお姑さん(義母)から

「どうして妊娠した、働けないじゃないか」と言われ

どうすることもできなくて実家に戻っています

  • 玉子さんの実母は?

「お腹を見て、この子は将来、国を動かすくらいのすごい大物になるから大事にしなさい」として生まれました

そこで教育に力を入れて、心の拠り所としました

夫・三憲さんからDVを受けても

お姑さんから嫌みを言われても

歯を食いしばって働いた女性です

玉子さんは親戚から何度も実家に戻ってくるように勧められています

父親・三憲さんの性格

いわゆるマザコン

口が悪くて働き者

「玉子がいないと生きていけない」と言いながら暴言も吐くそうです

「やはり玉子のメシはうめい」と言いながら食事

そのあと

「よし、わしは帰る」と言って他の女性へ行くそうです

  • 母親・玉子さんは?

「夫は身体が動かなくなったら私のところに戻ってくる」

「それまでは他の女性に面倒みてもらう」

「あんなワガママな人の面倒を見てくれるんだから愛人には感謝している」

幼少時代

1957年:孫正義さんの出生地は?

佐賀県鳥栖駅前の朝鮮部落です

佐賀県にはいつまで住んでいたの?

小学校の低学年頃まで住んでいたそうです

孫正義さんが受けたいじめとは?

幼稚園の時代に差別を受けて頭に石をぶつけられたことがありました

自分が朝鮮人だと意識したのはいつから?

第二次世界大戦で日本が敗戦してからのようです

戦争中は差別がなかったと孫正義さんは述べていました

日本が負けると上級生が5人~6人で組んでイジメるそうです

学校でクラスには朝鮮人は孫正義さん一人でした

戦前は日本に200何十万人の朝鮮人が来ていたそうです

戦争が終わるとほとんど帰って20人~30人しか残らなかった

戦後の孫一家の密航

祖父・鐘慶さんは敗戦から間もなく

長男・三憲(孫正義の父)と

二女・清子さん

母親(孫正義さんの祖母)の長女・友子さん

弟の在憲さんなどを連れて

故郷の韓国に帰国。

しかし故郷では生活することができずに

ふたたび日本に密航したそうです

船が出航したのは福岡県博多区千代町の大浜という地域だったとか

九州中から朝鮮に渡りたい人が何千人と来るので一か月くらい船を待っていたそうです

朝鮮に帰国しても仕事がなく再び日本へ

船はボロ船でエンジンは止まるし命からがら日本にやってきました

その時は山口県の仙埼に着いたそうです

汽車に乗って鳥栖市の田代駅で降りて住まいを構えました

父・三憲さんが11歳の時(昭和22年頃)です

孫正義さんの幼少時代の家業は?

鳥栖市の田代の山の方にある柚比(ゆび)という村で小作をしていました

  • 田んぼを八反くらい作っていたそうです

孫正義さんも一緒について行ったそうです

みんな貧しかったから

  • 豚を飼う
  • 鉄屑を扱う
  • 密造酒を作ったそうです
  • パチンコ経営
  • サラ金業
  • 不動産業
  • 喫茶店
  • 釣り堀など

豚を飼う

豚を飼うための残飯を貰いに行くのは女性の仕事だったそうです

祖母は7人の子どもを生みミルクがたくさん出る女性だったので飼っていた豚にも自身のミルクをあげていたそうです

父親・三憲さんは中学の年齢から遠くの街へお酒を売りに自転車を引いて行き、安全なものだと証明するために自ら飲んで現地の日本人とお酒を酌み交わし、信頼を得て商売をしていたといわれています

戦後のお酒について

粗悪なものが多く

視力を悪くした人が大勢いました

デヴィ夫人の父親は大工さんでしたが

粗悪なお酒を飲んで視力を落とし、

仕事ができなくなったそうです

デヴィ夫人の出生について書いた記事はこちら

父・三憲さんの商売はいわゆる「お試し販売」

現在のソフトバンクの先がけの商売の方法

孫正義さんの家系は学者や政治家で実業家ではありませんでした

祖父は働かない人だったと言われています

一方で祖母は優しくて働き者で子ども達のことをいつも一番に考える愛情のある人物といわれています

父・三憲さんは生活を支えるために

中学を卒業すると不眠不休で働いて身体を酷使しました

驚きなのは中学卒業した2年後に二階建ての家を購入

そこで孫正義さんが生まれたそうです

さらに筑後川の川魚に日本住血吸虫がミアイリガイという貝に寄生して皮膚から入る「風土病」のような病気で肝臓を壊したといわれています

孫正義さんが高校生の時に肝臓を壊してしまいます

戦後の孫さんの家は養豚で生計を立てました

福岡県の小郡で子豚を仕入れて家の軒先で育て半年くらい飼育したら売って生活

10歳になった頃、父・三憲さんはパチンコ屋に転向

パチンコから釣り堀の商売を始めています

釣り堀は赤鯛を釣れば1万円プレゼントするというもの

他には不動産も手掛けていました

お金を貸すサラ金業を経営

孫正義さんは

中学の担任の先生に

僕のお父さんの知り合いに

コワイ人がいっぱいいます

そんな人が家に出入りするの嫌なんです

などと打ち明けていました

喫茶店「山小屋」も経営

父・三憲さんがコーヒー店を開こうとすると

コーヒー卸から

「ここは立地が悪すぎて卸はできない」と断られます

息子・孫正義さん(小学3年生か4年生)に

「お前は天才なんだからアイディア出して」と相談

孫正義さんは2~3分考えると

「コーヒー何杯飲んでも無料」とコーヒーのイラストも描いたとか

父・三憲さんは

「おお、そうか、タダで飲ませんばいかんか?」

「赤字になるかも知らん」

孫正義さんは

「場所が悪けんが、しょうがなかろう」

「赤字が出るかも知れんね。でも、それしかない」

それで

「無料のコーヒー券を何千枚と印刷して店の入り口に置くと、お客様が無料券を欲しがって店に集まってきた」

「コーヒーを飲むだけでなく、何か食べてくれる」

「だから最初から黒字になった」

この頃から暮らしが豊かになります

親戚は焼き肉屋「ジャイアンツ」

福岡県に「ジャイアンツ」という名前の焼き肉屋を開店

野球球団のジャイアンツが福岡に来ると寄ってくれるそうです

10年ほど営業兼不動産業を営んだ後は

不動産のみの営業にしたそうです

孫正義さんの店舗は「ライオンズ」

なんだか因縁を感じます

孫正義さんの幼少時代(福岡県)

小学校時代(福岡県)

1964年:孫一家、北九州市に転居

  • 北九州市立引野小学校卒業

孫正義さんが小学4年生の頃

「学校の先生になりたい」と父・三憲さんに話していました

父・三憲さんは

「戸籍が日本に替われば教師になれる」

「どうしてもと言うなら韓国で先生になったら」と言うと

孫正義さんは

「韓国は人口が少ないから先生になっても意味がない」

「日本で先生になりたい」

父・三憲さんは

後に、孫正義さんが

日本に帰化したいとあかされた時、

反対しませんでした

孫正義さんの担任の三上喬先生の話し

孫正義さんの目をなぜか思い出すそうです

授業中に目を見開いて動かず正面を見据えている、すさまじい集中力で、その目が澄み切っていたそうです

写真がなく何かを学びとろうとしていました

そんなことを感じることは長い教師生活でもめったにないそうです

担任の先生は孫正義さんは将来政治家か教育者になると思っていました

実業家になってソフトバンクの経営は意外だったそうです

しかし世界を変えるのは政治家だけの仕事じゃない

ビジネスを通して世の中を変えたいと思っているのかも知れませんと話したそうです

孫正義さんの性格

クラスのリーダーで学級委員をしていました

子ども社会ではリーダーはたいがい敵をつくるものなんですが孫正義さんには敵がいません

孫正義さん自身が決して敵をつくらなかったそうです

分け隔てなく誰とでも付き合う子どもでした

勉強ができない子がいれば、ちゃんと寄り添って面倒をみる子供だったそうです

決して見下すようなことはしなかったといわれています

堅いだけじゃなくて

遊びに行けば誰よりも

はしゃいでいる明るい子供でみんなから

「安さん」と呼ばれて頼りにされていたそうです

▼1965年:叔父・国本徳田が三井山野炭鉱で爆発事故で逝去

中学時代

1970年:北九州市立引野中学校に進学

在籍したのは1学期の途中まで

転校した理由

進学校・福岡市立城南中学校に転校するためです

母は、孟母三遷の教えの通りにしたそうです

▼(もうぼさんせん)とは、教育は環境が大事という教えです

孫正義さんの家の財政は

パチンコの共同経営などで生活が上向きになっていました

初めはそれぞれがパチンコ経営

(韓国ならではの経営とは)

商売が繁盛すると親戚が隣の敷地に同じような店を建てます)

お客の取りあいになるので共同で経営すると、今度は取り分で揉めて喧嘩する

日本の財界人や金融関係者はこの姿を見て

喧嘩しなければもっと商売で稼げるのに

なんともったいない!と言われていました

孫正義さんの商売も

共同で営んで喧嘩が絶えなかったそうです

一度、たしなめたことがあったとか

この頃の孫正義さんは

いつも本を読んだり勉強している子供だったそうです

福岡市立城南中学校に転校

教育水準が高い学校に転校を決めたのは孫正義さん自身です

転校の手続きは全部自分でしました

転校初日も一人で職員室に挨拶に来たそうです

転校してわかったこと

それまでは学校で上位だった成績が最下位(下から2番目)

に近かったことにあります

通信簿がオール5→オール2へ低下してしまいました

住まいも引越し

母・玉子さんと福岡市城南区のマンションに引っ越しました

孫正義さんは中学生だったのでお母さんが鳥栖(とす)の家から通いました

孫正義さんの中学時代の性格

転校先でもすぐにリーダー的存在になりました

勉強ができるようになっても自分だけ先に進むことをしないそうです

落ちこぼれになりそうな人がいると一緒の目線で勉強する子供でした

言葉遣いも丁寧

性格も穏やか

担任の小野山美智子先生は孫正義さんの怒った顔を見たことがないそうです

孫正義さんの将来の夢

  1. 学校の先生になりたかったと書籍「あんぽん」で語りました
  2. 日本では他国の人が教員になることができません。そのため事業家になろうと決めました

当時は学習塾を経営しようと思ったそうです

孫正義さんのあだ名と高校時代

孫正義さんの「あだな」

旧姓の安本をそのまま音読みにて「あんぽん」と言われることをひどく嫌がりました

「あんぽん」の語感が「あんぽんたん」という屈辱語につながるだけれなく

「あんぽん」という韓国風の発音が自身の出自を隠して生きてきた自尊心を深く傷つけました

高校時代

1973年

  • 久留米大学附設高校入学
  • 夏休みにアメリカに短期留学
  • 祖母と韓国旅行
  • その2ヶ月後、高校を中退する

孫正義さんのアメリカ留学と国籍と結婚

1974年:16歳の時、アメリカへ語学学校に入学

この頃、父・三憲が突然入院

家族の危機にあったようです

しかし16歳の孫正義さんはアメリカに行こうと思いました

親戚や周囲から父親が病気の時にいくとはけしからんと言われても意思を貫いています

その理由

物心がついたときに日本で韓国人として生きることが辛かったとあかしました

韓国人を隠して日本名で生きることを辛いと思ったそうです

そんな時に父親が吐血して入院

1歳年上の兄は高校を中退

母を支えて

家計を支えて

父親の入院費を稼ぎました

孫正義さんの家庭教師事業とは?

父の病気でなんとしても一家の危機を這い上がられなければならない

どうするかを考えると事業家になろうと決意!

家族を支えられる事業を興すことを決意しました

そんな時に学習塾の経営を真剣に考えて

中学時代の先生を喫茶店に呼び出して

塾を開くから教師になってくださいと相談

しかし先生は公務員でサラリーマン!

事業のことは、からきしダメなんです

そこでアメリカ留学を決意

孫正義さんは本当は日本の大学に進んで教員になりたい

でも日本の法律では韓国籍では教員にはなれません

アメリカの大学を出れば日本人はもっと孫正義さんを高く評価してくれるかもしれないと思ったそうです

孫正義の送別会(友人に対して)

同級生に自身が韓国人ということを手紙で打ち明けました

「僕は本当は韓国籍だ」

「本名は孫」

「僕はこれからこの名前で生きていく」

「みんなに喜んで送ってもらったのでこちらで頑張っている」

孫正義さんが家族に対して

俺はアメリカに行って事業家になるタネを必ず見つけてくる

アメリカで何かをつかんで

日本に帰ってきたら事業を興し

絶対に家族を支えてみせる

さらに、いままで悩んできた国籍とか人種を超えて人間はみんあ一緒だということを証明できる立派な事業化になってみせる

アメリカに行く前に祖母と一緒に自分のルーツの韓国を見て回ろうと思ったそうです

孫正義さんは祖母との忘れられない思い出となりました

孫正義さんの国籍

日本姓と韓国姓について

アメリカでは「孫」と韓国姓を名乗りました

アメリカでの6年半の生活は日本にいたときよりずっと自由にものを考えることができたそうです

日本では「安本」と名乗っていました

友達といるときは楽しかったけど家に帰って一人になると友達に隠し事をしているような気がしてならなかったそうです

どうして日本にいる時に「孫」を名乗らなかったというと

日本では以前、多くの韓国人がひどい差別をうけていたからです

99%の韓国人は日本姓を名乗っているかぎり韓国人だということに気づかなかったそうです

孫正義さんが韓国姓に改称する時は難題がありました

その問題を解決するにはアメリカで知り合って結婚した女性の協力が必要でした

孫正義さんの国籍と日本に帰化

1990年

日本に帰化して「安本正義」から「孫正義」に改名

日本国籍を取得しました

帰化申請に時間がかかった理由

法務省の言い分

帰化申請を出すたび「孫」という韓国の姓が使えないと法務省から言われたからです

「孫」という名字は日本にはありません

先例がないものを認めるわけにはいかないのです

日本に帰化したいならば

日本風の名前に改名することを指示されました

孫正義さんの言い分

日本風の名字に改姓することは嫌です

孫正義さんの秘策

韓国では夫婦別姓なので妻は大野という旧姓のままとなっています

そこでまず

日本の妻・大野優美さんは

裁判所に大野という姓を「孫」に改姓する申請をしました

裁判所で「なぜ変更したいのか?」理由を聞かれると

「孫」は夫の姓だからだと答えました

日本人で韓国姓に変更したいと言ってきたのはあなたが最初だと言われたそうです

裁判所は改名を認めました

孫正義さんは

再度、法務省に行き

「日本人に本当に「孫」という韓国姓の先例はないのかよく調べて下さい、一人(妻)がいるはずです」

すると係員は「一人いました」

「あなたの奥さんです」

その後、孫正義さんは

日本名「安本正義」から韓国名「孫正義」のまま

日本に帰化することができました

父・三憲さんは帰化に反対しなかった?

小学4年生の頃から、教師になりたいという孫正義さんと幾度となく胸の内を聞いてきたので反対しませんでした

さらに

孫正義さんは幼稚園時代から頭が良かったそうです

性格は負けず嫌いで頑固!

大人っぽい性格だったので

この子は自分の子じゃない

社会のために使わなければと思ったそうです

アメリカ留学中に日本に一時帰国

母・玉子さんの妹が入院

孫正義さんがお見舞いに来た時に

母・玉子さんは

「この子はお金がかかる子なのよ」と妹に話しました

孫正義さんは

「お母さん、僕には何の財産も残さなくていいよ、その代わり、勉強の面倒だけは見て下さい。そのための世話だけはしてください。いつか必ずお金持ちになって恩返しします。カバンにたくさんのお金をつめて、お母さんにもってきてあげるから」

などと話して約束を果たしました

孫正義さんの語学

  • 母国語:日本語
  • 第二外国語:英語
  • 第三外国語:韓国語
  • 第四外国語:中国語
  • ハングルは読めないそうです

孫正義さんの略歴

1974年2月1(16歳)

  • アメリカに渡米
  • 孫正義さんは英語学校で数か月間語学を勉強しました
  • サンフランシスコ郊外のセラモンテ・ハイスクールに2年生として編入

1975年9月

  • ホーリー・ネームズ・カレッジに入学

(現在はホリー・ネームズ・ユニバーシティに改称)

  • 孫正義さんはこの大学で、将来、妻となる2歳年上の大野優美(おおの まさみ)さんと交際を始めました
  • 大野優美さんの父は熊本県出身で東京で大きな病院を経営
  • 娘には病院を引き継いでくれるような石と結婚させたがっていたようです
  • 孫正義さんは医師ではなかったので義父から否定されたと感じていたともいわれています
  • 最初は孫正義さんと結婚させる気はなかった
  • 大野優美さんはお見合いをさせて地元の医師に嫁がせたかった

孫正義さんは大野優美さんの母親に

結婚したいことを相談すると

「国籍のことは、とやかく言いません」

「今kら医学部に行き直すことはできませんか」と

言われたそうです

孫正義さんは

「僕は医者になるつもりはありまん」

「でも、どうしても必要ならば

病院をつくって、それを経営することはあり得ますよ

けれど、病院経営を自分の本業にしたいとは思いません

自分の考える事業をやりながら、

併せて病院の経営をやります

もし、僕が病院をやるなら100軒ぐらいは作る自信はあります

スケールが大きすぎますよね

1977年

  • カリフォルニア大学バークレー校経済学部に3年生から編入

1977年

交際中の大野優美さんも同大学の天文物理学部に編入

1978年

孫正義さんと大野優美さんが結婚

カリフォルニア州の地庁舎で、両親も親戚もいない2人きりの結婚式をあげました

子どもは2人、授かりました

現在はご結婚されてお孫さんがいます(2018年)

  • 自動翻訳機を共同開発

バークレー校で孫正義さんは

「一日一発明」の難題を課し

不眠不休で研究に没頭

その結果

「自動翻訳機」の発明で1億円の資金を手にしました

孫正義さんが成功できたのは

アメリカで国籍も人種も問題にしない自由の国だからではありません

父・三憲さんが肝臓病から復帰して潤沢な仕送りをしたからです

父親からの協力が成功の大きな鍵となりました

孫正義さんが自動翻訳機を発明したきっかけ

祖母・季元照さんが

アメリカ留学の孫正義さんを2度も訪ねています

その時、英語を話せない祖母を見て、

祖母が海外に行っても困らないように考えたのが

自動翻訳機だったそうです

孫正義さんはトイレの中でひらめきました

なぜ自動翻訳機が売れたのか

孫正義さんは大学3年生の頃、

宇宙物理学者のモーザー博士に商品を見せたそうです

孫正義さんは

このシステムを生かした商品のプロトタイプを作りたいと考えていたそうです

それを作り日本に帰国してライセンスを契約したい

孫正義さんのアイディアは

日本語をタイプしたら英語に翻訳されるものです

発音もわかるような商品です

しかし当時はごくありふれたものでした

モーザー博士が関心したのは?

孫正義さんの商売人としてのセンス!

他の発明者と違うのは

発明を商品化するだけでなく

その商品をいかに売るかというところまで考えていたところです

当時の孫正義さんは

空港にキオスクを設置する

翻訳機をレンタルするサービスを考えていた

海外に行って翻訳機を空港で借りれば

伝えたいことがその国の言葉でどう発音するかがわかる

その国を出る時は翻訳機を返却する

モーザー博士はグッとアイディアだと褒めました

  • 父・三憲とともに日本に商品を売り込む
  • シャープと2000万円で契約
  • 留学先で知り合った病院経営者の娘・大野優美と結婚

1979年

  • アメリカでソフトウェアの卸会社
  • 「ユニソン・ワールド」設立
  • インベーダーゲーム機を日本から輸入

1980年

  • バークレー大学卒業
  • 日本に帰国
  • 日本でも結婚式をあげました

披露宴会場は福岡市内の「ホテルニューオータニ博多・芙蓉の間」

新婦・優美さんはお色直しの時、韓国女性の伝統的な衣装・チマチョゴリに着替えました

1981年

  • 日本での活動を開始
  • ソフトバンクの前身「日本ソフトバンク」を福岡に設立
  • 祖母・季元照が逝去

孫正義さんとソフトバンク

ソフトバンクを始める前の1年半、

どんな事業をやるか随分迷ったそうです

その中のひとつに、病院

経営という選択肢も

実際にありました

孫正義さんの経営①

自身の企業に親戚を入社させません

その理由は

自身の姉と弟がずっとゴタゴタしているのを嫌と言うほど見てきたから

一人がパチンコ店を出店して成功すると

姉と弟がよってたかって、その隣にパチンコ店を出店

そして内輪もめになる

1982年

  • 月刊パソコン誌「oh!PC」を創刊
  • 出版事業に参入

1983年

  • 慢性肝炎で虎の門に入院、会長職にひきました
  • 社長には日本警備保障副会長の大森康彦が就任

1984年

  • 退院

1986年

  • 孫正義が社長に復帰
  • 京セラに電話回線選択アダプター(LCR)を売り込む

1990年

  • 1990年9月:日本に帰化
  • 帰化前の名前:安本正義

孫正義さんの国籍と日本に帰化

日本に帰化して「安本正義」から「孫正義」に改名

日本国籍を取得しました

  • 商業をソフトバンクに変更

1994年

  • ソフトバンクの株式を店頭公開

1995年

  • アメリカマイクロソフトと合弁でゲームバンクの設立
  • 鳥栖駅前の朝鮮部落バラックが完全撤去

1996年

  • アメリカ・ヤフーに筆頭株主として資本参加する
  • 「Yahoo!JAPAN」を設立
  • 毎日経済人賞を受賞
  • スピーチで祖母の思い出を涙で語る
  • 豪ニューズ・コーポレーションのルパート・マードックと共同でテレビ朝日の買収を試みるが失敗

1998年

  • ソフトバンクの株式を東証1部上場

1999年

  • 証券市場「ナスダックジャパン」を創設

(2002年に業務停止)

2000年

  • 日本債権信用銀行

(現・あおぞら銀行)に資本参加

(2003年に売却)

2001年

  • ブロードバンド事業に参入

アメリカのインターネットビジネスのYahoo!と共同で本格的に通信事業に進出した時、孫正義さんが街頭で端末を無料で配布するという奇想天外なアイディアで市場をあっという間に虜にしました

2004年

  • 日本テレコムを買収(3400憶円)
  • 固定通信事業に参入
  • 福岡ダイエーホークスを買収
  • 2005年中国アリババを中国国内でのインターネット事業で提携

2006年

  • ボーダフォン日本法人を買収

(1兆7500億円)

  • 携帯事業に参入

2008年

  • アメリカアップルの「iPhone3G」を発売
  • 新規加入者が激増

2010年

  • ソフトバンク新30年ビジョンを発売
  • 後継者育英のため
  • 「ソフトバンクアカデミア」を開校
  • 全国に光ブロードバンド網を整備する「光の道」構想を提唱

2011年

  • 東日本大震災で被災者に100億円の個人義損金を寄付
  • それとは別に、十億円の私財を投じて原発に代わる自然エネルギー財団を設立することが報じられました
  • 2011年10月6日:米国アップル社を創設したスティーブン・ジョブズが逝去
  • それまでアップルのスマートフォンを独占してきたのが強豪相手位のKDDI(au)からも発売

孫正義さんが脱原発事業に乗り出した理由

東日本大震災がきっかけ

携帯も固定も、普段は1人当たり1日平均3分くらいしか使わない

各社ともそも10倍くらいのキャパシティーは持っています

でも震災の時は100倍のキャパシティーが必要となった

電話は各社ともストップ

エレベーターもストップ

状況報告を技術部門の管理者から聞いていて

ネットワークが止まったことを知ることになり

物理的にどこが倒れたのかわからない

通信の信号が止まった

それから電機が止まった

孫正義さんは電気がないと通信はつながらないことは理解しています

それを改めて感じたことが脱原発事業に乗り出すきっかけとなったそうです

この時ウィルコムのPHSだけは繋がっていました

孫正義さんは同年3月12日

国内向けのSNSを無料化

iPhone用「災害伝言板アプリ」を提供

同年3月13日

大量の充電器を現地に送る手配

被災地のユーザーの支払い延長・破損・紛失対策・携帯貸し出しなどの対策を打ち出しました

同年3月20日

福島県二葉町民が避難している「さいたまスーパーアリーナ」を訪問

同年3月22日

佐賀県市長とともに福島県の県災害対策本部を訪れ、被災者のコミュニティ単位での受け入れをすると新書を手渡しました

その足で福島県田村市の市長と会談し、避難所の田村市総合体育かんを訪れています

政治家よりも早い対応に驚きました

孫正義さんの家系

孫正義さんは韓国の両班(ヤンバン)の家系といわれています

孫正義さんの故郷・両班(ヤンバン)とは

季氏朝鮮時代の支配機構を担ったエリート官僚のことです

孫正義さんの祖先は大邱(てぐ)郊外にあります

末裔たちの話しでは

「孫」さんの家系は文官や学者が多い家系

職業を許されるのは

政治家・学者・弁護士など

実業家は許されないそうです

親戚が集まると「両班」の話しになるようです

孫正義さんは家計はプライドの高い家に育てられました

両班(ヤンバン)の家柄に生まれたものは

商売人になっては絶対にいけないそうです

酔っ払って小さな欲望に絶対に走らないこと

お金のために人生をすごさないこと

お金儲けは恥ずかしいこと

将来、韓国に戻るなら大統領になること

孫正義さんは

事業家になろうとは思っていませんでした

教育者になりたかったのです

お父さんは、生きるために事業家になりました

貧困で精一杯働いて家族を養っています

お金を儲けたことを家で話すと

祖父は食事に手をつけなかったそうです

孫正義さんは父から

天下国家といった次元でものを考えるように育てました

商売はできるだけ安く買って高く売ることです

でも事業は違う

鉄道や道路、電力会社など

天下国家の礎を作るのが事業家です

孫正義さんの思想が少しわかってきました

祖父・孫鐘慶(ソン・ジョンギョン)

1930年代

朝鮮の大邱(てぐ)から

小作農として対馬海峡を渡って日本にきました

生活に窮して日本の鉱山に出稼ぎをしていたようです

間もなくして

祖母が朝鮮の江原道(カンウォンド)より日本にきました

1934年に結婚

7人の子供を産みます

友子・清子・三憲・在憲・一憲・雪子・成憲(四男三女)

「三憲」さんが孫正義さんのお父さんです

祖母(ルーツは孫さんは韓国の南部)

炭鉱(飯塚の麻生炭鉱)で働いていました

親戚同士で喧嘩が始まると「アイゴー」と言って止めに入る優しい女性だったそうです

働いていた炭鉱は

麻生炭鉱は政治家・麻生太郎さんの炭鉱です

祖母の弟はこの炭鉱の爆発事故で逝去しました

祖母・季元照(イ・ウィンゾ)

東部で生まれました

(冬のソナタのロケ地)

2人は初子を生んだ前後で佐賀県鳥栖市に住まいを移しました

叔父・季晩只

結婚後は金山の堀削のために北朝鮮に渡りその地で命を落としました

孫正義さんの家族

  • 父・孫(安本)三憲
  • 母・季玉子
  • 長男・正明
  • 二男・正義
  • 三男・正憲
  • 四男・康蔵

最後まで読んでいただきましてありがとうございました

りおさ

 

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こんにちは りおさです。 サイト名「SALON DE RIOSA」はりおさの趣味の部屋です。普段はアトリエで物を作っています。ブログは子供の頃からプロフィールを収集することが好きだったので始めました。周囲にリサーチしていると「りおさの時間を短くしてリオサーチ」と呼ばれるようになったのが始まりです。 いろいろな世代の人が年齢や性別を気にせずに会話が弾んだら楽しいとおもったことがはじまりでした。 このサイトを訪れたあなたにとって、お気に入りのカフェにいるような、気軽な雰囲気でリラックスした時間を過ごしてほしいという思いを込めました。

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